戦場の閉鎖。それは稼ぎ場がなくなる事。
秀吉の刀狩の令。これは学校の教科書でも出てくる秀吉が作った有名な法令です。さてこの法なんて教わりました?おそらく、全国の人々の武装を解体し再び国内が乱世に逆戻りし豊臣政権を打倒するような勢力を封じ込める・・・・といったような教わり方をしませんでしたか?
まあこれは間違えではないし合っているといえば合っていると思います。この法令が敷かれたのは、秀吉が政権を開き日本平定事業の一環で敷かれた法で、秀吉はこのほかにも沢山の法令を発行しています。政権転覆を目論む勢力を封じ込めるといった以前に時代の変わり目に起こる大きな歪、これが豊臣政権の大きな課題で、戦争がない世の中をどう成立させるのかといった事が秀吉の課題でした。
長らく続いた日本が全国で繰り広げていた戦争が急速に無くなっていた頃でした。これは秀吉の小田原北条氏討伐を期に起こっていきました。このことは、人々が平和に暮らせる日々が訪れる、バンバンザイな出来事のように思えるかもしれないが、そうではないのです。
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日本は長らく全国で戦争が絶えませんでした。しかしこの戦争は人々が食う為に生き残る為に否応なしに全ての人々が巻き込まれていたのです。決して権力者の単純な権力欲のみで全国の人々が振り回されていたという、単純な話ではないのです。
裏を返せば、この戦争こそが当時の飢饉状態を緩和させる生命維持装置的な役割を果たし、戦争こそが大きなビジネスになっていたのです。言葉は悪いですが、これが中世に日本の現実だったようです。
日本から戦争を無くし、平和を望むのであれば戦場である大きな稼ぎ場が無くなることを引き換えに人々は大失業時代を受け入れそれを乗り越える必要がありました。秀吉の覇業の次の大仕事がこの時代の大変換をどう処理していくかが大きな課題でまた大問題であった。
日本は長らくこの戦争ありきで動いてきた、当然一丁夕やで変えられるものではない。戦場ある所に職を求めた渡り奉公人、盗賊や海賊そして悪党はもちろん、百姓、農民も大きな収入原を失う事になる。
そこで秀吉は国内のこうしたサイクルを日本から海外に移したのだ。
文禄・慶長の役である。多くの人々が渡海した、それは武士や兵役をこなす者達だけでなく、商人、奴隷商人、ラッパ、スッパ(詳しくは⇒)、戦争で商いや傭兵を請け負う者達だ。
よく学校の授業で文禄・慶長の役は秀吉が大名に与える新たな領地を求め行われたと教わったと思いますが、それだけではなく、こうした大量の出業者対策であった側面も見逃してはならない。秀吉は日本国内を新たな統治体系にする為には、大量の失業者対策に追われながらも、これといった斬新な方法はとれず、国外に稼ぎ場を移動する他なかったようだ。
しかし文禄・慶長の役は農民や百姓には遠すぎる地だ。
豊臣政権では大阪城の築城、都市開発、京周辺では聚楽第(じゅらくてい)や大仏殿等の開発が活発になり、また地方でも城の改築やインフラ化つまり公共授業が活発になり、人々は中央そして地方の都市部に集中して集まっていくようになり、土地を離れ職を求める人々の流動がはげしくなり、各地を流浪する者が大量に発生したのだ。
秀吉政権にすればこれはこれで困るのだ。
浪人の取り締まり
土着しない人間からは税収が上がらないからだ。農民、百姓には土地に残り農耕に勤しんでもらうのが一番なのだが、農民はそれだけでは食っていけないので、こうした各地を流浪する者たちが出るのは当然であった。
こういった問題は権力者側からだけでなく、各農村からも過疎化問題で悲鳴が上がったいたようだ。
さて大きな時代の変換期であった日本での秀吉が行った「刀狩りじゃ~」以外の政策を見ていこう。文禄・慶長の役は、いささか強引な面が際立っているが、日本国内で秀吉が早急に対応したのが、浪人を禁止することであった。
国内で戦場がめっきり無くなったことで大量の浪人を生み、各地の集落にこの浪人がたむろする始末だった。この浪人とは武家奉公人。とはいっても戦場事に一時的に雇われる臨時の兵隊で自称侍と名乗っている者が多かった。これは治安上も非常によくない。
彼らは決まった主や奉公先があるわけでもなく、さりとて田畑を耕すわけでもない。こういった者達を村から追い出せといった法令だ。
そして、こういった浪人でも商人や職人の心得があり今後それに勤しむのであれば、これに該当しない。しかし上の礼の後慌てて商人、職人を名乗る者は村から追い出せというものだ。つまり、にわか、えせ商人、職人は認めないということだ。
ここで大事なのは、何か出来る事がありそれに従事するのであれば、村に残る事を認めている点だ、職人、商人の定義には、ある一定のラインは設けるが、浪人から百姓になるのには、特に規定は設けていない。
対象はあくまで、得体の知れない自称侍達なのです。
もうひとつ面白い法令がある。毒の売買を禁止するという法令だ。
浪人を無くそうという法令の中になんとも不思議な法令だ。当時毒は河魚や人間等広い用途で使われていたらしい。
肝心なのは人間に使う場合である。これは毒であるので当然殺人に用いられる。こういった物を使用する連中は大概ラッパやスッパ等裏稼業でビジネスをする者たちでこれを販売している商人もまた戦争ビジネスで設ける連中だ。
彼らは戦場ある所に現れるのだ。この毒の売買を禁止するターゲットは戦争ビジネスを行う者達だ。逆にいうと今まではこれらが平然と行われていた巨大ビジネスだったわけだ。
そして刀狩の一環である、百姓達から武具類を没収する政策だ。主を持たない侍を村から排除した上で行われた。
主がいる武家奉公人である場合に限り刀帯を許されていたが、奉公人といってもそれほど裕福なわけでもなく、通常は田畑を耕したり、商人や職人を兼業している。
百姓とは一線を画するとし、このような政策がとられたようだ。奉公人にもランクがあり、常備軍として奉公している者と、村で予備軍として扱われる下級の奉公人だ、これは江戸時代まで続く階級制度であった。
秀吉が行った浪人を排除する政策には、戦争にまつわる繋がりを断ち切る事に主眼が置かれていた。
豊臣政権下の目的は戦争ではない新たな日本のサイクルを作り出す事を目的とし、政権打倒を封じ込めるといったニュアンスもあったであろうが、まずは、これまで続いてきた戦争から人々を遠ざけ断ち切る政策を行っていました。
戦争が少なくなったとはいえ、自然に平和で安全になっていったわけではなく、秀吉のリードが大きく影響していたわけです。
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