寡黙な軍人信綱と昌輝
真田幸隆(ゆきたか)の息子である昌幸(まさゆき)、しかしこの昌幸には兄達がいて、長男信綱(のぶつな)、次男昌輝(まさてる)そして昌幸と続くのだ。
しかし、この二人がピックアップされる事はあまりない。父幸隆や昌幸と違い優秀でなかったから名が知られていないのだろうか?インパクトとしては、確かに幸隆、昌幸に比べると地味な気がします。
ただ後世に伝わる人物像は尾尻がついていたり、少ない資料から連想するしかなく、必ずしも正確とは言いがたい。
信綱と昌輝の二人は寡黙だったのかどうかは分かりませんが、とにかく彼らの言葉が残っていないのです。
しかし、武田軍の足跡を追っていくと、信綱と昌輝の二人の名はくっきりと浮かび上がり、各地を転戦し働いていたことが分かります。
六文銭を掲げ各地を転戦
ちなみに、真田源太左衛門尉信綱(げんたざえもんのじょうのぶつな)、 兵部丞昌輝(ひょうぶのじょうまさてる)が正確な名です。
もうひとつちなみに真田家の人物には、源の文字がよく使われている、これは真田家その元の家である滋野一族が清和源氏の流れ汲む一族であることの証明のため使われていたとする話がある。
さて、このふたり信綱と昌輝は平凡であまり戦績がない人達だったかというと、実はそうではありません。武田信玄の晩年の転戦に必ず信綱、昌輝が信濃先方衆として参戦しています。
あの有名な川中島の戦い。この戦いに二人の名が見られます。この時は父幸隆が真田家の当主としてその下で士気を奮っていたらしい。真田家は武田別働隊が妻女山へ向かった部隊、飯富(おぶ)兵部、馬場民部らの部隊と行動を共にしていた。
信玄は永禄11年に今川家の駿河を占領する為軍を起すが、この時の戦いにも信綱、昌輝の名が見られます。武田軍の先方として、山県、馬場らと共に軍を進めています。この時は父幸隆の名はみられない。年齢でいうと50を越えていたので、長男信綱が幸隆の代わりに出陣したと思われます。
そして三増峠(みぞうとうげ)の戦い。長篠の戦いに参加しこの長篠で二人とも命を落としている。
ご覧の通り、信玄の晩年の転戦に必ず従軍している。長篠の時は信玄はいないが、武田軍の戦力として一翼を担っていたのだ。そして山県や馬場、飯富、小山田、等武田軍の重要な部隊と行動を共にしている。つまり信玄から作戦上重要なポジションを任されていたのだ。
これは、いうまでも無く彼らがいかに優れていたかが分かり、信玄から任せるに足る人物として認識されていたことが伺える。
しかし信綱と昌輝は、幸隆や昌幸のようなアクの強さというか、人物像が伺える話やエピソードの資料がないため、どういった人物だったのかは、よく分からないのです。ですが彼ら二人の名はしっかりと歴史に刻み込まれています。