自分の意思で人生を設計できない、秀秋の宿命。
前回の記事(詳しくは⇒)の続きです。前回は秀吉に実子である秀頼が誕生し、秀吉の後継者候補達が危うい状況になってきた所までを書かせて頂きました。
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秀吉は、養子に迎えた者達が将来秀頼の障害になる事を恐れ始めるが、特に身内である秀次と秀秋がその最もなる人物だ。そこに黒田孝高(くろだよしたか)が秀吉につぶやく「よき案がございます。」
孝高は秀吉が覇業を成すのに大きく貢献し人物、相当なキレ者だ。孝高が目を付けたのは、毛利家だ。当時の毛利家当主は輝元であったが、彼には実子が無く、ここで秀秋を毛利家に養子として送り込む事を進言したのだ。
これを毛利側は察知するが、表立ってこれを拒否すことができない、毛利家の豊臣政権下での立場が危ういものとなるからだ。
ここで輝元には叔父にあたる小早川隆景が先手を打つ。隆景はすぐさま秀吉に秀秋を小早川家に養子として迎えたいと申し出たのだ。
しかし、隆景は水面化で、自分の弟にあたる穂田元清(ほいだもときよ)の子を秀元と改名させ、輝元の後継者として立てのだ。これで毛利宗家の血統を絶やさずに済む。
秀吉は鎌倉時代から続く名門小早川家であれば文句はなく喜び、秀秋と小早川家との養子縁組を承諾した。
このような壮絶な駆け引きが行われている中、本人の秀秋は何も知らない、完全に蚊帳の外で、秀秋の意思や思惑なぞ入り込む余地がないく、秀秋はただ翻弄されるだけだ。
少し話しを戻します。小早川隆景さんは、いわずと知れた名将です。
隆景は早い時期から、秀吉に協力的で秀吉も隆景には好感を持っていたようだ。この隆景は朝鮮出兵に参加していて、1万5000を率い、日本軍の6番隊の総司令官を任されていた。隆景はかなり奮戦していたが、この時既に60歳という高齢だった。
秀吉は隆景の功績を労う為、前線より呼び戻し、五大老として向かい入れた。
この頃、秀吉の養子である関白秀次との間に大きなしこりが出来ていて、秀次の素行が荒れだしていた。こういった事を理由に謀反の疑いありとされ、高野山に追放の後、切腹を言い渡された。
秀次が死んだ。これは秀頼の成長とともに、障害を排除する為の政策で、かなり強引な処置だ。当然秀秋にもその目は向けられる。
秀秋は突如、丹波亀山城を没収される。ここで小早川隆景は隠居し、秀秋に小早川家の当主の座を譲ったのだ。秀秋は難を逃れる事ができたが、秀秋からしたら、とばってちりもいいとこだ。されるがままに彼の人生は翻弄されていた。
秀秋はあれよあれよと、いつの間にか、筑前の名島城主となり、30万石もの領土を要する大大名となっていた。秀秋は若くして、莫大な人と領土を一手に預かる重務と重責を背負う事となる。この頃の秀秋は当主交代に伴う人事編成や、国内の検地等で、かなり忙しかったであろう。
秀秋の秀吉へのわだかまり
秀秋の忙しさなぞ意に介さず、慶長2年1596年に明との講和条約がこじれ決裂となり、再びと秀吉による侵攻が準備される。
秀吉から各隊の編成の通達がされた。この全国から集まった全軍の総司令官に任命されたのが、小早川秀秋であった。秀秋のこの時の年齢は、まだ16歳だ。秀吉はこの秀秋に軍目付けとして大田一(おおたかずよし)そして、後見人として黒田孝高を付けてやった。大事業である為、秀吉も慎重だ。
前回の出兵での総司令官は宇喜多秀家であった、しかも小早川家の本家は毛利家で、それを差し置いての小早川秀秋の抜擢であった。これは一見大変名誉な事だ、しかし秀秋自身には実績も戦績もなく、ただ秀吉の身内から総大将として戦線に送り込めるのは秀秋しか居なかったのだ。
秀秋の胸中はどんなものだったのであろうか。名誉と思い勇んでいたのか、それとも・・・。
秀秋は前回の出兵の際、自分も渡海し戦線に参加したいと申し出た、しかし秀吉からは「おまえは、大事な身。もしもがあっては、絶対にいかんのだ。」とし渡海は叶わなかった。
それなのに今度は「喜べ、戦場にいき手柄を上げられるぞ。行って来い。」だ。秀秋は分かっている。別に自分が優秀で見込まれて、総大将になったわけではない、自分が率いる部隊は隆景が作り上げた精鋭部隊、そして自分には、優秀なブレーン達が秀吉から送り込まれている、いや監視としてのニュアンスも大きい。
そして、なにより秀吉に実子である秀頼が産まれたことにより、自分が邪魔者扱いされている事も重々承知している。あわよくば戦場にて俺(秀秋)が死ねば、好都合だろう。「死んで来いということか。俺は捨て駒か・・・」
戦場で秀秋が戦死しても、軍の指揮を代行できる者は沢山いる。秀秋がこう思っていたかどうかはわからないが、このような事を考えていたのではないかと、想像しやすい。
彼はまだ16才だ。幼いときは秀吉とおねはかわいがってくれた。それが急に手のひら返しだ。秀秋にとっては、おねと秀吉は親であり、最も信用していた人物。これが急に大人達の事情で、自分はないがしろにされ始めた。
当時の世でこんなことは当たり前なのかもしれないが、やはり冷静にこの秀秋の親子関係を見ると、とても健全とは思えない。現在であれば、子が非行に走っても、親が悪いとしか言いようが無い状態だ。
秀秋の胸中はどうあれ、日本軍の侵攻が始まり、その数総勢14万人(諸説あり)ほどだったようだ、その総司令官として、秀秋は渡海するのでした。
秀秋にとって、これが実戦で指揮をとることになる始めての戦いだ。秀秋は胸中に沢山のわだかまりを抱えながら、大軍団の指揮を預かることになる。
16才の青年といえば、まだ人格形勢途上の不安定な時期だ、それを振り払うかのように秀秋は異国で必死に職務をこなすのだ。秀秋に失敗は許されない、豊臣政権下において、自分の立場はかなり危うい。失敗はこの世に自分の居場所が無くなることと同じだ。
ここで戦功を挙げ、なんとしても自分の株を上げねばならなかった。
しかし、もっと底の底の本心はただ、秀吉に対し子として、受け入れて欲しいと言う単純で素直な思いだったのではないでしょうか?
次回につづく⇒
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