“へたれ”として永遠にイジられ続けて来た小早川秀秋。彼の人生、其の一

秀秋の消えることのないイメージ

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小早川秀秋。戦記物に興味がない方でも一度は耳にした事がある名前ではないでしょうか?この人物、関ヶ原戦で、西軍に組しながら、東軍に鞍替えをして劇的な裏切り劇を見せた人物です。いまさら説明をするまでもありませんね。

さて関ヶ原戦後、何百年も経ちますが、彼がドラマ等で取り上げられるのは、やはりこの戦いでの姿で、彼の人物象とういいますか、持たれているイメージは優柔不断、浅はか、臆病、軽薄、等々人に向けられる侮蔑的な印象をすべて兼ね備えているような感じです。

関ヶ原戦の模様は数々の小説やドラマ等で取り上げられてきましたが、物語を面白くするため、この小早川秀秋はイジり倒されてきました。

もうそれは容赦がありません。まあそれだけこの関ヶ原の戦いが歴史上重要な位置にあるからなのですが。秀秋のイメージはこういったエンターテイメントの後押しもあり、さらに輪をかけて「へたれ」として現在に名を残しています。

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しかし秀秋はかつて、豊臣の跡取りとし期待され、秀吉に寵愛されいた人物。ここまでは結構知られていると思うのですが、小早川性を名乗る事になった経緯や朝鮮出兵の際での彼の動向などはあまりピックアップされる事がありません。

関ヶ原で彼は迷いに、迷いました。豊臣か徳川と。家康からの脅しのような催促があって初めて決断し西軍に矛先を向ける決意をしました。

この部分の見方、取り上げられ方が、秀秋「臆病、優柔不断、つまり、へぼい」と強調されているよに思います。豊臣を裏切ったとする側面からみれば、彼の行いは不義です。

しかしこの迷いは何だったのか、ただ臆病風に吹かれたのか、それとも利害を考えた結果なのか、誰にも分かりません。

ここで彼の半生を見ると少しだけ垣間見えます。彼の苦悩と絶望が。

秀秋自体の文献は比較的少ないそうですが、まったく無いわけではないので、彼を少しだけ知る事ができます。

順風満帆な金吾将軍。秀秋

秀秋は天正10年1582年に秀吉の正室である、おねの兄木下家定(きのしたいえさだ)。母は杉原家次(すぎはら いえつぐ)の娘であり、近江の長浜で産まれた。

秀吉はその頃、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを制し、天下日へと駆け上がっていた。だが秀吉の正室のおねが、子が無いことを酷く寂しがり、兄夫婦の子の兄弟の一人を欲しいと懇願した。何故だかわからないが秀吉は5男の子辰之助(後の秀秋)であればいいだろうとして、この子を養子に迎え名を秀俊(ひでとし)とした。

名前から見てわかるよに「秀」が使われていることから、おねと秀吉が相当入れ込んでいた事が伺える。

秀秋は秀吉の後継者候補となります。しかし、他にも秀吉は自分の後継者候補がいて、秀吉の甥に当たる秀次、これまた秀吉の甥小吉秀勝(こきち ひでかつ)、織田信長の4男於次秀勝(おつぎ ひでかつ)宇喜多秀家、誠仁親王の子である八条宮(はちじょうのみや)、等々沢山いた。秀秋はこの中で一番年下だ。

秀吉の秀秋への可愛がり方は周りの目をはばからず、といった感じで、秀吉の九州平定戦の折、秀秋がまだ6歳にも関わらず、自分の側に置いて連れて行き、実質これが初陣となるが、その後小田原城攻めの時も秀秋を連れて行き、戦のなんたるかを、秀吉自らが説明していたようです。

また秀秋はとんでもないスピードで出世をしていく。最終的には、従三位権中納言にまで昇った。

これは一重に秀吉が手を尽くしたからだが。とにもかくにも秀秋の人生は絶好調であった。と言っても幼い秀秋からしたら、何が何やら・・・・といった感じでしょう。ただ大事にされているんだとうい実感は持てていたのではないでしょうか?

因みに秀秋のことを金吾将軍(きんごしょうぐん)と称している場面を度々見たり聞いたりする事があるかと思いますが、右衛門督(うえもんのかみ)を兼任していたことからきてるらしい。右衛門督とは、唐では、宮門の警備隊長に当たる役職でこの任つく者は、金のきらびやかな甲冑を着ていたそうだ。

後継者候補レースから脱落。だが秀吉はまだ秀秋が可愛かったようです。

しかし秀秋に暗雲が立ち込める。秀吉が目を掛けているのは、秀秋だけではない。もう一人、天正19年に正式に養子となった秀次がいる。秀秋はまだ幼いし、これまでボンボンといいますか、親のコネで出世して行ったが、秀次は違う。

秀次は15才で初陣し、根来攻略、四国平定戦、小田原城攻めで戦績を上げ、目に見える形で結果を出し、秀吉から尾張と伊勢が与えられた。その後奥羽平定戦にも出陣し凱旋後、正二位権大納言になり、秀吉から関白の職を受け継いだ。

秀秋はこの秀次に大きく水をあけられた。

秀吉とおねは、秀秋と秀次を比べた時、明らかに秀次が方が資質が上だと考え、しかも秀次の方が歳が上でわざわざ、秀次を差し置いて推するまでもないと判断したようだ。

ここで秀秋は後継者候補から外れたのだ。どうもここら辺から、秀秋に対し伯母である、おねからは冷たくあしらわれるようになっていったようです。

全国の大名に朝鮮出兵への出陣命令が下る。文禄元年1592年であった。全軍、肥前の名護屋城に向かった。当初秀吉も渡海する予定であったが、それは見送られた。

この頃秀秋は丹波亀山城城主であった。この秀秋の下にも出陣命令が発せられていた。因みに秀秋は12才である。秀秋は出陣に際し伯母であるおねに会いに大阪城に寄っている。

しかしおねは、かなり素っ気無くあしらったらしい。おねにはもはや秀秋への愛情が相当に薄かったようです。優秀じゃないから?言動が気に入らないのか、人相が嫌なのか、理由は分かりませんが、これは12才の人間にはかなりキツイ。秀秋からしたら母と同義の存在だ。伯母が自分に向けている嫌悪感のような物は幼いが故に敏感に感じ取れたでしょう。

秀秋は大阪を発ち、軍を引き連れ名護屋に到着。

この秀秋の軍勢は人数も多くきらびやかで、戦いへの意気込みが感じられる、気合がみなぎっていた。秀秋は自分の立場の危うさみたいな感覚を感じていて、なんとかおねや秀吉にいい所を見せたかったのでしょう。

秀吉はそんな秀秋の様子を見て、いたく感動したらしく、おね対して、その態度はイカンだろと注意を促している。「金吾(秀秋のこと)の働き次第では、自分の隠居分を譲ってもよいと思っている。」(武家事記)との秀吉の言葉が残っている。

しかも秀吉は秀秋の軍に宮部継潤等の優秀な者を付けてやっている。秀秋は自分も渡海にし戦功あ上げたいと願い懇願したと思われます。秀秋を渡海させませんでした。歳の若さ故の側面もあろうが、秀秋に大事があっては困ると秀吉が考えていたのではないでしょうか。

伯母に疎まれ、そして秀吉からも・・・

渡海した日本軍は見知らぬ土地で、激戦を繰り広げていた、この戦いがいかに大変だったかは皆さんもご存知でしょう。

そんな中で秀吉の側室である淀から、拾(後の秀頼)が産まれた。

秀吉の喜びようはそれはそれは、凄かったらしく、日本軍が膠着状態に陥り、数々の難問が秀吉の下に上がってくるが、秀吉はそれら問題をそっちのけで秀頼にべったり入れ込んでいたよだ。

秀吉はこれまで常に後継者問題で頭を悩ませていたが、実子の誕生でそれらが、すべて解消されたに思われた。 が、

他の養子の連中をどうしよう・・・となってくるのだ。つまり邪魔になってきたのだ。古今東西この後継者問題が災いを招いた例は数知れない、その為厳しく対処する必要がるのだ。秀秋もそのターゲットの一人だ。

秀吉の愛情はすべて秀頼に向けられ、この秀頼の障害になる事はすべて排除せねばならないという思いに達する。

ここで秀吉の知恵袋である黒田孝高(くろだよしたか)が秀吉に語りかける。「よい方法があります」と・・・。

長くなりましたので、次回につづく

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