三方ヶ原 信玄VS家康 魚鱗と鶴翼の謎?

なぜ家康は鶴翼を展開したのか?

戦

三方ヶ原の戦いで家康は大敗をしましたが、戦場で家康は武田軍に対して鶴翼を展開して挑みました。方や信玄は魚鱗を展開しています。

一般的に魚鱗は攻撃型、鶴翼は防御型として、認識されているようです。そもそも日本における陣形とは、戦場でのマニュアルのよなうな書物が中国から上陸しそれらを、大江 維時(おおえの これとき 平安時代の人物)という学者により編集され、方円、鋒矢、偃月などの呼び名になっていったそうです。しかしその後の多くの人物達が、これに編集や自らの想像などを加えて伝えられているため、実は正確な原型は明確になっていないそうだ。しかも、この陣形は、砦等軍が駐屯する構築物の配置なのかそれとも軍の配置図なのかも不明のようである。

しかし、多くの古い書物、甲陽軍艦やその他多くの記録に戦いの様子が描かれていますが、それらにもこの陣形が使われていた様子が伺える。なので、不明な点は多いが、戦闘の際にこういった軍の配列のマニュアルがあっことは確かなのでしょう。

だからといって実際の戦闘でこの教科書通りにきれいに配列されていたわけではなく、天候や地形、人の数、歩兵、騎馬、鉄砲の数等で臨機応変に、指揮する人物の経験則からその人オリジナルの方法が取られていたと思われます。

話がそれてしまいましたが、家康と信玄の話にもどします。管理人は三方ヶ原の動画を作ってみましたが、大変迷ったシーンがありました、それは、家康が鶴翼の陣をどこのタイミングで展開したかなのです。先にも書きましたが、鶴翼は一般的に防御的な陣形で相手より多い兵数の時に使うのが効果的だそうです。

詳しい資料がないためすべてが憶測になるんですよね。まず家康は、武田軍がすでに魚鱗を展開していて、それに対抗するために鶴翼を敷いたのか、それとも、武田軍を攻撃するために鶴翼を敷いたのか?なのです。攻撃するためにというのは、この時武田軍は三河方面に向かっていて、細い坂道を下っていました、家康は明らかにこのタイミングを狙っていたでしょう。坂を下る武田軍に対して上から射撃する為に軍を横に長く展開していたのではないかとも考えられますが、この方法は奇襲といいますか、鉄砲をぶっ放し少しちょっかいを出して、それ逃げろ的な戦い方のような気がします、もしそうであれば、全軍を差し向けるより、小部隊で素早く行軍できる編成にしたのではないでしょうか?まともにやりあっては、全滅してしまいますからね。すでに武田軍が魚鱗を展開していたケースでは、家康のほうが兵数が少ないのに鶴翼?という疑問も残ります。現場でいったいどういうやり取りが行われていたのか??????

まあこういうグレーゾーンがあるから、作り手にとっては想像が膨らみ面白いところなんですが、結局管理人は動画の中で、魚鱗に対して慌てて鶴翼を展開という方を採用しました。それは何故か?そのほうが家康のヤバさが際立つからです。これは完全に管理人の趣味です。あしからず。

皆さんはこの二人のやり取りをどういう風に分析しますか?

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