信長の引き立て役として、どうしてもイジられちゃう名将今川義元 其の二

今川義元、社長就任早々の荒波

軍の編成 組織 役職

前回は義元が、今川家の当主になるまでを紹介させていただきました。いわゆる花倉の乱と呼ばれる事件だ。

地図1530

義元の兄氏輝が死亡したのが天文5年の1536年であった。

義元が当主として動き出すのもこの頃で、大雑把で恐縮ですが、上図は1530年頃の勢力分布図です。相続争いを制したが義元はここらが正念場であった。今川家はまだ内部の統制が図れていない状態であったが、外の状況がそれを待ってはくれない。

義元が当主に就任した頃の今川家は家督相続争いのダメージがまだ抜け切っておらず、隙あらば他国に走ろう、義元を追い落とそうする勢力があり、足並みはバラバラで前途多難な状態であった。

義元はまず氏輝の代まで抗争が続き険悪であった、武田信虎の娘を正室に迎えることに成功し、武田家との関係を良好な状態に持って行き今川家の安全を図った。

しかしこれが、北条氏綱の逆鱗に触れることになる。北条家も又、武田家とは険悪な状態が長く続いていた。氏綱は花倉の乱の折義元に加勢した過去があるので、義元の態度に激怒したのだ。北条氏綱は兵を挙げ駿河に侵攻してきた。氏綱は名将。

しかも今川家は先の花倉の乱が尾を引き家臣団のほころびが見え、足並み揃わぬ状態で氏綱と戦闘状態となった。この戦いで義元は駿河の東部(静岡県東部)を占領されてしまう。当主になって直ぐの手痛い洗礼パンチを食らう。

内部のごたごたで足並み揃わぬ今川軍。

そこで義元は武田家と連携して、北条氏綱に対抗し領土奪還を試みます。しかしまたしても先の花倉の乱で反義元を掲げた勢力が遠江で混乱に乗じて反旗を翻したのだ。義元はこの離反勢力と北条氏綱に挟撃される形となり敗北し、駿河の東部一帯は氏綱の支配下として、長らく定着してまう。

さらに、さらに、今度は今川領の西から災いがやってきます。尾張の織田信秀が三河国に侵攻してきます。義元はすぐさま援軍を繰り出し三河の諸侯勢力と連携して織田信秀に対抗する構えを見せる。

信秀は織田信長の親父さんでありますが、信長の親父さん戦が上手だったようですね。今川軍はこの織田軍に蹴散らされて負けてしまいます。

この今川軍VS織田軍の戦いは小豆坂の戦いと呼ばれていて2度行われたとされていますが、1回目は後世の創作で、無かったのではないかとの説があります。

義元は社長就任早々会社が傾き潰れそうな状態にまで追い込まれていくわけですね。優雅なイメージがある義元ですが、このようにかなりまずい状況に追い込まれどん底を経験しているのです。

当主交代が行われたばかりの勢力は得てして外的に狙われ易い状況になります。家督相続の為家中でなんらかの対立があり戦力が疲弊したり、当主が若くて未熟である等の理由から、標的にされ易く非常に危ない状況になるのです。その情報が他勢力の知るところになると標的とされてしまいす。今川義元もこれに近い状況でしょう。

今川家の他にもこの時期、北条と武田でも世代交代の時期で関東東海は荒れ模様だったようですね。

今川義元反撃の狼煙を上げる!

義元は窮地の状況であったが、そんな折北条氏綱が死亡し、北条家は氏康が当主となります。ここで義元は攻勢にでて、北条家と対立をしていた、山内上杉憲政に歩み寄り同盟にこぎつけます。

山内上杉と連携して北条を挟撃する構えに出たのだ。さらに武田に援軍を依頼し北条に占領された駿河東部の奪還に打って出た、今度は北条がピンチに陥る形になったのだ。北条氏康にとってさらなる悲劇は長年対立していた、関東の山内扇谷の両上杉氏と古河公方が連合して北条氏康に仕掛けてきたのだ。

関東連合軍(両上杉と古河公方)のその兵数なんと8万(諸説あり)ともいわれている数だ。大群だ。

北条氏康は今川武田連合、関東の両上杉氏と古河公方連合を相手にする状況に陥り、駿河東部で今川武田連合に破れ、関東では河越城が両上杉氏と古河公方連合が包囲する形となった。

地図1545

いかに名将北条氏康とはいえこの状況はいかんともしがたい。氏康はたまりかね武田家に今川義元との関係修復の仲介を依頼した。因みこの時の武田家当主は信虎から晴信(後の信玄)へと変わっていた。晴信はこの氏康からの依頼を承諾し今川義元に話を持ち掛ける。北条が占領した駿河東部を返還をするという条件で今川義元と北条氏康は和睦をする事に成功する。

これまでピンチが続いていた義元であったが、ようやく状況が変わり始める。方や氏康は義元との和睦に成功し西の脅威を排除したものの、関東連合軍をなんとかしなければならない。

なんと氏康はこの関東連合軍の8万を僅かな8千程の兵で蹴散らしたのだ、世に言う河越夜戦(詳しくは)だ。北条氏康はこの後進路を北にとり関東方面の制圧に集中するようになったため義元との関係は良好な状態になっていきます。

今川義元、三河制圧のため織田に反撃!東海一の弓取りへ!

占領されていた駿河東部の返還がされた義元は東の脅威が去り次の標的は三河だ。義元は三河の松平広忠を帰順させることに成功し織田方と小競り合いをしながら、着実に三河の諸勢力を従わせていった。徳川家康(この頃竹千代)が今川家の人質となったのもこの頃だ。だが家康は織田方に奪われてしまう。

三河に深く食い込んできた義元に、織田信秀は対抗します。今川軍VS織田軍の激突第2次小豆坂の戦いが勃発します。この戦いには義元の師匠である太原雪斎も指揮官として参戦していたようで、今川軍が大勝する。

この戦いによって三河国から織田方の影響力を大分排除したことになる。さらに三河の松平広忠が死去すると当主不在となった岡崎城に軍を送り込み、三河国の国人衆を支配下に置く事になる。さらに三河安祥城を攻略。この時織田方の将織田信広を捕らえ、信広と家康を人質交換とし家康を取り戻した。こうして三河もおおかた今川義元の勢力化に組み込まれて行った。

義元は、駿河、遠江、三河を領する巨大勢力へとのし上っていきました。

ざっと義元さんの足跡をつらつらと書いてみましたが、義元さんもまた他の戦国大名同様大変な荒波の中を潜り抜けてきた人であることが分かると思います。けっして平々凡々と蹴鞠をして日々を過ごしていたわけではなく、桶狭間で戦死するまでにこれだけの国難がありそれを自らの知恵と力で振り払って来た人物です。

武田信玄、北条氏康と肩を並べ義元の名が挙がるのは、今川家が名門で在るが故のためではなく、歴とした義元自身の政策や戦績があるからなのです。

今川義元の優れた内政政策。

さらに今川義元に注目すべき点は国内の様々な行政政策だ。

義元は父が定めた今川仮名目録に追加法を加えた。これを仮名目録追加21条という。いわゆる分国法だ。

簡単にいうと義元は幕府が定める法律ではなく自国の法は自国で定めるとし守護大名からの脱却を宣言し、戦国大名(幕府の命令でなくとも独自の判断で他国へ侵攻したり介入する。徴収等その他諸々の行政を自国で独自に行う)へとなっていく。

この法の中で義元は東国でもいち早く検地(田畑の面積から収穫量を測り税金の額を規定する事)の徹底をはかり、農村の大名直轄の強化を図り一円支配改革を行っていった。

又家臣団の給与システムの改革をしたり、などなど国家統治の法を整備していったのだ。この今川家の法は当時大変優れていたもので先進的なものであった。武田信玄も甲州法度之次第という法を作るが、今川仮名目録から大きな影響を受けている。

また朝倉宗滴は手本にすべき人物として、武田信玄、毛利元就らetcと共に今川義元の名を挙げている。

というわけで、長々とつらつらと義元さんの武勇伝を書いてきましたが、エンターテイメントで登場する義元さんには実はこのような実績があるのだという事を少し頭に入れて見てみると、面白い見方が出来ると思います。

いきなり、桶狭間戦で登場して無様にやられてしまう役どころの不憫な人物ですが、彼もまた乱世の荒波を生き延びてきた、戦国大名なのです。

では次回桶狭間戦を追って行きたいと思います。

次回に続く

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