東海一の弓取り、桶狭間に散る。
前回の続きです。駿河、遠江、三河を領する巨大勢力になった今川義元でした。しかし彼はその後織田信長によって討ち取られます。
今回は桶狭間の記事なのですが、この戦いに関しては至る所で紹介されているため、正直今更記事にすのもな~と思っていたのですが、今川義元さんがテーマなので、やっぱり外せないということで、なるべく分かりやすく戦いの行方を紹介できればと思っております。
しかしこの桶狭間の戦いは、現在でも様々な方達が日々研究を行っていて、旧来の信長の奇襲説が見直される傾向にあるようです。
現在まで定説となっていた、信長の奇襲攻撃による戦いの考察は元々戦前の帝国陸軍参謀本部が考察し編集したものが、現在まで定説として語られ、学校の教科書でも習ったと思います。この考察も時間が絶ち各方面の研究からどうも違うぞ?といった信長の新説ルートであったり、そもそも奇襲ではない等の見方がでてきていて、管理人もなにがなにやらでよく分からないというのが、本音です。
ですので現在まででこれが妥当な見方なのかな?といった所を紹介してみようと思います。
また、黒幕に武田信玄が絡んでいたとかetcいろいろな話しがありますが、こういった話はこの記事では省きます。又別記事で紹介できたらと思います。とにもかくにもこの戦いは非常にミステリアスで、いろいろな考え方や見方が出来る戦いです。
桶狭間戦は少々長くなりそうなので、2回に分けます。
ではいきましょう東海一の弓取りが敗れる桶狭間の戦いです。
今川義元、西へ、西へ
桶狭間の戦いは今川義元が京に上洛するために尾張侵攻を始め戦端が開かれたことになっているが、これは常識的に考えてちょっと無理がある。
尾張を従属させていない状況でそこを素通りして、大群を引き連れての京までの大遠征など危ないことこの上ない。この手の話しは武田信玄西上作戦と同じで、遠征すればするほど兵站線は伸び物資補給も厳しくなりこの兵站線が途切れてしまえば軍は孤立し干からびる。
信玄の場合も上洛ではなく、三河を領有化する局地戦であると考えたほうが無難な気がします。義元も将来的には京に入り幕府権力掌握を考えていたのかもしれませんが、そのためには尾張の領有化が先のはずで義元もそのつもりだったのではないでしょうか?
そもそも論で義元が西に軍をおこしたのは、信長が原因です。
鳴海城という場所があり、ここは元々織田信秀が管轄していた尾張領内の城でしたが、信秀が死んで信長の代になってから、鳴海城城主山口氏が今川方に鞍替えします。
信長は尾張掌握を目指していたので、この鳴海城を取り返そうとしていたわけです。そこで信長は鳴海城と大高城の間に鷲津砦、丸根砦等を築き攻撃を始めたのです。
今川義元はこれに反応し軍を起すわけです。ここで注目したいのは、今川管轄の城を攻撃しているということは、信長は義元が反撃してくる事を当然想定していたと言う事になるのです。言い方を変えれば、喧嘩を売り挑発したのは信長とうことだ。←(ここちょっと覚えておいて頂けると嬉しく思います。)
今川義元は軍を起し西に向かう。信長が攻撃しているエリアを磐石なものとする為です。もしかしたらそのまま尾張を掌握しようとしていたのかもしれません。諸説ありますがその数2万5千と言われる大群です。
義元は駿河の駿府城から出陣。掛川、引馬、吉田、岡崎、を経由し先鋒隊に続いて沓掛城に到着。ここで義元は今後の展開に付いて軍議を開いていた。
戦場は眼と鼻の先だ。
義元の立てた立案は次のようなものだ。尾張領に深く食い込んでいる鳴海城を押さえにかかるのではなく、大高城を固め周辺の砦を排除した後、鳴海城の押さえを堅実なものとするという手堅い方法だ。
義元はまず大高城を足場にするつもりだ。そこで大高城に兵糧を運び込む。その任に就いたのが後の家康、松平元康だ。その上で義元は鷲津砦、丸根砦を排除する作戦だった。
● まず丸根砦ここは佐久間大学が指揮をとっている。ここを松平元康が攻める。
● 鷲津砦を守るのは織田秀敏、ここを攻めるのが朝比奈泰朝。
● 沓掛城の守備に浅井政敏1500を城に残す。義元本軍は大高城に入る。
これが今川軍の当面の作戦だ。
戦闘が開始される。松平元康は兵1000でもって小荷駄を引きつれ大高城に向かう、当然鷲津砦、丸根砦の側を通過しなければならない。織田方はこれを妨害するため攻撃をしてくるが、元康は応戦しながら、なんとかかんとか、大高城に小荷駄隊を入れることに成功する。(さらっと流してしまったが、この時の家康さん、もうほんとに死に物狂いだったそうです。)
不気味な織田信長
さて、一方この頃信長は清洲城にいました。当然今川方の大高城へ兵糧が運びこまれた情報は信長の耳に入っています。織田家の主だった家臣達が清洲に集まりあれやこれや意見を出し合っていたが、当の信長は関係のない雑談ばかりしています。
この雑談は夜遅くまで続き結局具体的な戦略案は信長の口から発せられることはありませんでした。信長に策が無かったわけがありません、上にも書きましたが義元に喧嘩を売ったのは信長なのですから・・・・しかも雑談しているだけなのに夜遅くまで?もし話す事がないのであれば、すぐに解散してもいいはず、おかしいですよね・・・・・家臣達を遅くまで拘束していたのにも理由があります。
今川義元は兵糧を入れる事に成功したため大高城を足場にする準備は整いました、あとは鷲津、丸根砦を手はず通り攻撃隊が事を進めてくれます。
本来であれば信長からしたらとても嫌な展開です。しかし信長は動きません。信長の下には鷲津、丸根砦がいつ攻撃されてもおかしくない状態であるという報が何度も飛び込んできたはずです。信長はこの時点で援軍も出さないし、自身も動きません。
ここまでの状況を見てみると、義元は非常に手堅い堅実な展開をしています。数に頼ったガサツな戦い方はしていません。兵法の基本通りといったところでしょうか。信長の方は周りの人間からすると、この人なにやってるの?真意が分からない、降伏?篭城?戦う気があるの?ないの?といったところででょう。
今川義元、織田信長、双方運命の出陣!
そうこうしてるうちに、今川方の鷲津砦、丸根砦への攻撃が始まった。この攻撃がはじまった情報が信長の下に届きます、ここで信長はいよいよ腰を上げ出陣の素振りを見せるが、家臣達にはなんの話しもないまま、単騎で出陣してしまった、周りの人間はわけもわからず信長の後を追った。信長は砦が攻撃されるのを待っていたのだ。おそらく信長の内心は「かかったな義元!」だったと思います。
信長は熱田神宮に入り戦勝祈願をおこないます。そのころ今川義元は沓掛城を出陣。守備隊を残し自身の本体は大高城に入る予定であった。砦攻撃は有利に展開しているという報が義元の下に届いている。順調だ義元本体は大高道を進軍した。
義元の戦いは思惑通りに進んでいた。
次回に続く⇒
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