今川義元の戦い、それは順調であった。
前回の続きです。今回は桶狭間後編です。
現在の状況は、
-今川軍-
● 丸根砦(兵数400)、佐久間大学が指揮官のここを松平元康(兵数2000)が攻撃中。
● 鷲津砦(兵数400)を守るのは織田秀敏ここを、朝比奈泰朝(兵数2500)が攻撃中。
と言われているが、兵数に関しては諸説あり正確とはいえない。
● 義元本軍が沓掛城が出陣、大高城を目指す。
-織田軍-
● 今川軍の丸根、鷲津両砦の攻撃が始まると、清洲を出陣。
といった状況だ。
単純に今川攻撃部隊と織田砦守備兵の戦力差では砦を守り抜くことは難しい。
信長の狙いは砦は捨て駒・・・時間さえ稼いでくれればいい。この時点で義元の本陣は砦攻撃部隊と沓掛城に置く守備兵とで義元率いる部隊の数は減っている。ただ正確な兵数はわからない。少なくとも戦力は分散されている。
当然砦を守る織田方の将は清洲からの何らかの対応を期待し奮戦するが叶わず、両砦は陥落する。だが、すんなり落ちたわけではないようです。今川方の松平元康軍の被害は相当なもので、松平正親を始め多くの指揮官を失っている。元康隊は大高城に戻り人馬を休息させている。
さて義元本陣は大高城目指し進軍中でその頃、織田方を警戒しながら桶狭間山付近まで来ていた、ここで両砦陥落の報が義元本陣に届く。こうなればもはや急ぐ必要なし。ちょうど時刻も昼だったので、桶狭間山前方に前衛軍を配置し本陣は桶狭間山に陣を敷き休息に入る。
一方信長は、善照寺砦に入る。ここを守るは佐久間信盛だ。すでに陥落した丸根砦を守っていたのは佐久間大学。信盛の一族だ佐久間一族は前線に出ていて清洲城にいた信長の様子を知らない。←ここちょっと覚えて置いてください。ここで信長の軍は佐久間信盛の隊と合わせて3000程の隊になっていた。
因みに桶狭間山からは、善照寺砦は視認できるそうだ。義元は信長の動きを把握しながら、軍を休憩させている。信長のほうも義元本陣の動きを知ることが出来たようでお互いが視認でできた状況である。
信長してやったり!義元本陣への突撃体勢に入る。
信長が善照寺砦にやっきたことで士気が上がり、中島砦の前衛にいた、佐々政次、千秋四郎が兵300程で今川軍の前衛に攻撃をしかけるも、両将討ち死に。この両将の首は義元の下に送られ、さらにに砦を守備していた織田方の佐久間大学らの首も届き首実検が行われている。
義元連勝だ。両砦の陥落を知った付近の僧や農村の者達が祝いとして酒盛りを届けに来たりしていて、今川軍は戦勝気分で戦闘の緊張が緩んでいたのかもしれない。
今川方の軍勢は2万5千(諸説あり)であるが、それは総兵力であって、義元本陣の数ではない。この時点で各方面に戦力が分散されている事がわかる。義元の本陣にどれくらいの兵数がいたのかは、不明だ。しかも休息をとっている状態で戦勝気分だ。
こういったケース(戦闘がひと段落してしばらくは安全だろうと判断された場合)では下級兵(雇われ兵や農民兵)は近くに村落があるとそこに略奪あるいは、言葉が悪いですが、酒や遊女を買いに行く風習が当時ありました(詳しくは⇒)。
これはなにも珍しいことではなく、何処の軍でも行われていて、決まった日時、時間に軍に合流すればなんらお咎めをうけることはなかったそうだ。むしろこういった行いが下級兵達の給料となっていたのだ。
もしかしたら、この時義元の陣もこのような空気になったいた可能性もなくもない、だとしたら、義元本陣の兵数も我々が考える程多くなかったのかもしれないしそうでないのかもしれない、真相はよくわからない・・・・
いよいよ信長が動き出す。義元からしたら順調に事が進んでいたが、信長としても、義元軍の現在の状況は自分が想定する理想的な状態になっていたと思われる。
ここで信長は1000を守備隊に残し自身は2000を引きつれ中島砦に入る。信長は手持ちで2000の兵を有していたことになる。2万5000と比較してしまうと少ないかもしれないが、上に書いた可能性を考えると2000という数字はけっして少ない数じゃない。
しかもこの2000は信長のもとに馳せ参じた精鋭部隊、決死隊といってもいい。十分に戦える戦力だ・・・ちなみにこの信長軍移動の様は今川軍から丸見えであり、軍を隠そうとする形跡はサラサラ無い。
信長が敷いていた布石はこれだ。今川軍の大群を散らすことが目的だったのだ。そのため鷲津砦、丸根砦が攻撃されるまで動かなかったのだ。義元が軍を分け攻撃を仕掛けるまで待っていたのだ。
義元が大高城に入ることは信長は当然予想していて、大高城周りにある砦は本軍ではなく別の攻撃隊にさせ安全になってから本軍がやってくるはず。それがセオリーだ。砦を囮にし、そこに攻撃隊を引き付け、兵数が減った移動中の義元本体が信長の狙いだったと思われます。しかもうまいことに、義元は進軍を停止している。チャンスだ。そしてそこに必ず義元自身がいるはずだ。
まさに今信長の狙い通りの状況になったわけです。2000の精鋭であれば今川前衛部隊を蹴散らし十分に本陣にアタックをかけられる。これは信長の奇襲ではなく、今川軍の中枢に直接くさびを打ち込むための戦いだと思われます。これまでの信長の奇怪で独断的な行動はすべてこの状況を作ろうとする、信長の合理的な行動だったとも取れます。
信長突撃、義元桶狭間に散る。
信長は中島砦から義元本陣目指し出陣します。
さらに信長のとっての幸運が、途中豪雨が降る。雨が止んだタイミングで今川前衛隊を蹴散らし、雨のお陰ではぼ無傷のままかなり義元の本陣付近まで接近する事に成功。信長は全軍に激を飛ばし自らも槍を持ち本陣へ突撃します。
義元本陣はこれを迎え撃ちます。双方入り乱れての大混戦、しかし今川方は支えきれなくなり、義元は旗本衆を失い自らも刀を抜き白兵戦の後、毛利良勝に討ち取られる。義元は死ぬ間際、服部一忠を切りつけ、毛利良勝の指を噛み千切ったそうだ。
総大将が討ち死にした今川軍は総崩れになり戦場を離脱、信長の勝利であった。
しかし信長側の被害も相当だったらしい。従来のイメージでは義元本陣が不意をつかれ乱れに乱れ、信長圧勝といった感じなのだが、どうも信長側の被害状況(これも諸説あって正確には分からない。負傷者や戦死者が攻撃隊の数を上回っている資料などがあり、本当の所は不明。)から想像すると、義元本陣と信長の隊がガチンコの戦闘を繰り広げられていたことが想像できます。
因みにこの時岡崎城を守っていた山田景隆が逃亡したため、松平元康はここにちゃっかりと入城してしまいました。
これが現在有力視されている桶狭間の戦いだ。
腑に落ちない義元本陣の動向と様子。
こうして今川義元は戦死してしまったのですが、エンターテイメントで登場する義元さんとは随分印象が違いませんか?
織田方に討ち取られた時の義元さんそれはそれは無様なやられっぷりですが、義元自身抜刀し白兵戦をしています。その上での討ち死にで武士として立派だったと思います。
なにより注目すべき点は義元の戦争のやり方です。彼は決して数を頼んだ傲慢な展開はしておらず、非常に丁寧にことを運んでいて、手堅い方法で戦争を進めています。惜しむところはやはり桶狭間山での義元本陣の事でしょう。
どうもこの桶狭間山での義元軍が不可解というか、お粗末な感じがします。信長の行動は見えていたろうし、信長が攻撃してくるだろう可能性は義元さんだって十分想定していたでしょう。ん~~~~何があったのでしょうか?よく分かりません。
ここで義元さんの本陣が実際にどういった空気になっていたのか知る術はありませんが、信長の軍を接近させてしまった事が義元さんの敗因でしょう。この一敗によって義元は何百年もの間お歯黒ばかキャラのレッテルを貼られることになってしまいました。
しかも残念なことにこの桶狭間の戦いを見るとどうしても、信長の凄さが際立ってしまいます。義元さんが物語上の引き立て役として使われてしまうのもなんとなく分かりますが、やはり不憫だな~と思えてなりません。
やっぱり信長は、こえ~な~~~
さてこの記事は義元さんの記事なのですが、少々信長の事も触れておこうと思います。
ここからは管理人の憶測になりますが恐縮です。桶狭間の戦いからなんとなく信長の人物像が浮かび上がってきます。信長さんやはり怖い人だな~と改めて感じます。この戦いで信長は終止自分の胸の内を誰にもしゃべっていません。つまり始まりから終わりまで、自分一人の独断で全て行動しています。織田家はその後完全な信長の独裁組織となっていきますが、信長の独裁制を周りの人間に強要することに成功するに至ったきっかけがこの戦いで、結果を出すことが出来たからでしょう。
信長は鷲津砦、丸根砦が攻撃されるまで一切行動を起しませんでした。
家臣達にも自分の考えていることを話しませんでした。そしてこの戦いを呼び込んだのは信長自身で今川にけし掛けました、どの道、いずれ義元とは三河尾張国境付近にての紛争が展開されることは、間違いない。それを前倒しして戦いを呼び込んだのは信長です。信長には義元と戦う覚悟と信長の頭の中で想定している何かがあったのでしょう。
信長が何故砦が攻撃されるまで動かなかったのかは少し書きましたが、今川軍の戦力を分散させ本陣の数を減らすためでした。砦は完全に囮として使われたことになります、丸根砦には佐久間大学という将が守っていました。そして善照寺砦には佐久間信盛がいました。佐久間一族は前線に出ていて清洲城に居た信長や家臣達の動向が良く分からないし、ましてや信長の考えなど知る由しもないわけです。
つまり最初から信長は砦を囮にし佐久間大学を見殺しにすると考えていたと推測すると、この作戦が部下達に漏れるとまずいわけです。当然多くの人間に反対されるし、これが元で他国へ走る者や信長に反旗を翻す者現れるでしょう。
そこでもはや囮とされ死ぬ事が決定してる丸根砦の佐久間大学の身内である、一番露見してはいけない佐久間信盛の前線配置は計算された人事だったのではないでしょうか?そして清洲城で家臣達と遅くまで雑談していたのも、家臣たちを自由に行動させず拘束する計算があったと取れます。(国立歴史民俗博物館歴史研究系の教授、小島道裕氏がこのよな考察をされていて、管理人もこの考察に、これだ!と感銘を受けています。)
数で劣る信長は使える手は何でも使い家臣を捨て駒にしてでも戦いを挑むしかなかったわけです。
なんらかの形でいずれ今川と小競り合いにるだろう事は間違いない。そこで信長は相手から攻められ窮地に陥るより自分から今川軍と戦争になる状況を作り上げ、なるべく自分が想定内で戦える状況、自分の土俵で戦いたかったのでしょう。
なんともうまい事に義元自身も出陣してきました。信長にとってはこれは願ってもなチャンスだ義元を引っ張りだすこと成功したわけだ。どんな犠牲を払ってでも義元を討ち取ろうとする執念が信長にはあったのでではいなでしょうか?桶狭間戦は一見信長の大ピンチのように語られていますが、三河を脅かされる可能性に危機を感じた義元が信長に対応したと見た方が正確な見方なのでは?と思わされます。
戦後ようやく家臣達も信長が考えてたことがわります。あの砦は囮だったのだと・・・・きっと皆ゾッとしたことでしょう。知らされていなわけだから。信長が自分の考えを家臣達に知らせなかったのは上に書いた通りで、
後年佐久間信盛と信長の確執はこの桶狭間の戦いで身内を捨て駒にされたという佐久間信盛のわだかまりがあり、その態度が信長にはとても 鼻に付いたのでしょう。
そして他の人間もいつ知らない内に自分が捨て駒にされるか分からないといった恐怖心があったと思われます。
信長はその後いくつかの家臣団のトラブルに遭遇しています。こいういったトラブルは織田家に限りませんが織田のケースで言えば信長に牙を向く人間は信長の人間像を理解していてその心胆に恐怖し利用されたり、殺されたりする前に抵抗しようという意識が働き信長に牙を向ける行動に出るのでしょう。
信長によって殺されないまでも、突然解雇された人間も多くいます。しかも信長は自分の考えを変更するような人間ではありません。信長に目を付けられた人間は信長を殺し勝つことでしか生きる道がないのです。
勝つ為繁栄し生き延びる為なら手段等選ばない徹底した合理主義者、それが織田信長なのでしょう。
話しがそれてしいましたが、桶狭間の戦いで義元と信長を比べると、信長のほうが喧嘩の仕方が上手だったように思います。
義元のように優等生的な優秀さではない、不良の信長が喧嘩に勝ったといった印象をうけました。皆さんどう感じますか?
とにもかくにも東海一の弓取りと言われ巨大勢力にのし上った今川義元でしたが、桶狭間での僅かなスキが彼の命を奪いました。それまで積み上げたものがこのたった1回の戦いで全てが崩れ去ってしまったのです。しかし義元さんの死に様は決して無様ではなく武士らしい散り方だったと思います。
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