信長のヨイショ役今川義元
今川義元さん。彼もまたショボイ人物として描かれることが多く、私管理人も昔々はドラマ等で語れる今川義元像を鵜呑みにしいていました。義元のこういった形の印象が強まったのはやはり大群を率いながら、少数である織田信長に討たれた、桶狭間の戦いが原因でしょう。
最近でこそ今川義元目線で描かれる読み物等が多く出ていますが、昔は殆どありませんでした。大概は信長が主人公であり、信長が大きく飛躍する為の駒として、お決まりのネタに近いような扱いをされていました。
その義元像は、名門にあぐらをかき、お歯黒にし京かぶれで下を見下し、太っていて馬にも乗れず、最後討たれるシーンは無様に地べたを這いずり逃げ回り命乞いをして討たれるといった所ですね。
まさに志村けんが演じるバカ殿のようなイメージです。
桶狭間戦での信長の鮮烈な勝利を彩る為、義元はとことん蔑まされる形で桶狭間のシーンの所だけで登場します。物語の演出上まあ仕方ないのかな?という気がしますが、やはりちょっとやりすぎだろうと言う気がします。
今でこそこいういった義元の人物像が創作された物であることは、多くの人が認知する所でありますが、管理人のようなテレビっ子世代の人達なんかは当時今川義元をショボイへたれとして認知していた人も多いのではないかな?と思います。
この人物ならどんないじり方してもOKだろうみたいな風潮になってしまっているような気がします。小早川秀秋さんとちょっと似た扱いです。
しかし、この義元さんの半生もまた他の戦国武将達に引けを取らない熾烈な生き残り競争を立ち回り、自らの力でのし上がって来た名将なのです。
今川領は戦国でも激戦区と呼ばれる関東エリアに属しています。もし義元がエンターテイメントに描かれるような人物であれば、信長と対峙する前に、とっくに消え去っていたでしょう。
今川義元がどうやって乱世を立ち回り強豪ひしめく中で領国を繁栄、維持していったのかを追って行きたいとおもいます。
今回は義元が群雄としてスタートラインに立つまでの家督相続争いを追って行こうと思います。
太原 雪斎との出会い。英才教育を叩き込まれる。
義元は名門と言れる11代目当主の座につくが、自動的に当主になったわけではない。
もともと義元の父の今川氏親(いまがわ うじちか)の5男として産まれた。この時点では長男ではない為、今川家当主継承権は持っていない。当時はこうした長男以外の者は後の家督相続の争いの種になることが多々起こるので、仏門の世界に入れられたりすることがありました。
義元もまたその例と同じく臨済宗の善徳寺、仏門の世界に入れられた。
善徳寺に入って義元は栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名づけられていた。この頃、義元に大きな影響を与える人物が教育係りとして義元の側に付いた。この人物は元々は今川家の重臣であり臨済宗の禅僧でもある、太原 雪斎(たいげん せっさい)という男だ。雪斎が義元に教養を叩き込むのだ。
太原 雪斎という男、今更説明不要だと思いますが、知らない人の為ちょこっと説明しておくと、今川家の重臣と言われるだけあり、内政、外交、軍事に渡り今川家の繁栄に多大な貢献をしてきた人物で、僧でありながら将として大変優れていたようで、雪斎もまた乱世をリアルタイムで生き抜いた人なのだ。今風の流行言葉でいうと今川家の軍師と言ったところでしょうか。
義元は雪斎から多くの教えを請う事になる。義元にとってまさに師匠だ。
義元はこの太原雪斎につれられ、京に入りそこで英才教育を施されていたようです。
後世の義元像が顔面を白く塗りお歯黒にして登場するイメージはこの頃の義元が京に居た事や母が貴族の人間であったことに関係したことなのでしょう。
実際に義元が化粧をしていたかどうかは別として、基本義元の化粧姿は、義元を揶揄(ばかにしたような)するような形で表現されています。しかし、公家のような化粧をすることは格式の高い守護大名以上の家柄でなければならなかった。つまりこれは教養が高く格式が高いことの表れでもあるのです。
実際に義元が常に化粧をしていたかどうかは分かりませんし、後世の作り話かもしれません。
名門今川家当主のイスにただで座れたわけではない。家督相続を勝ち取る義元
さて京で過ごす義元だが、氏輝(義元の兄で今川家の当主。母は父氏親の正室寿桂尼<じゅけいに>)が義元を京都から呼び戻します。義元の波乱がここから始まります。
義元が駿河に戻って直ぐの天文5年1536年に氏輝が急死します。義元にはまだ兄の彦五郎がいるのでこの時点は継承権がない。しかしこの彦五郎も死亡してしまうのだ。
ここで義元に今川家の継承権が回ってくるのだ、義元の兄である氏輝と彦五郎は義元と同じ母の寿桂尼(じゅけいに)でこの寿桂尼は中御門宣胤(なかみかど のぶたね)の娘で非常に格式の高いお家柄いわゆる貴族だ。
兄達と同じ母から産まれた義元であるし、格式的にも申し分のいことこら、今川家の当主には義元を!と重臣達から声が上がったのだ。
ここで当時の将軍、足利義晴より名を賜り、義元と名乗ることになる。しかし家中の中から待った!をかける一派が出てくるのだ、今川家の重臣である福島氏であった。福島氏は遠江、甲斐方面の外交や軍事を担当している今川家の中でも重要なポストを兼任する一族だ。
福島氏は義元とは異母兄にあたる玄広恵探(げんこう えたん)を担ぎ出し継承権を主張し、義元を当主とすることを認めず、遂には挙兵するに至った。
こうなってしまっては、もはや武力衝突しかありません。家督相続の争いは何も今川家だけではありませんが、その決着の付け方はお互いが血を流して勝ち取るのが常でドロドロしたもの。義元もまた当主となる為の洗礼を受けることになります。
こうして玄広恵探は今川館を攻撃したが、これに失敗。その後花倉城等を拠点とし義元側に抵抗します。やがてこの玄広恵探の動きに同調する勢力が現れ始め、この争いが長引けば今川領自体が大変な危機に陥ることになる。
ここで義元側は外の勢力である北条に支援を求め、玄広恵探が占拠する方ノ上城と花倉城を攻めこれを陥落させた。玄広恵探は逃亡しその後自刃しようやく家督相続争いが収束に向かい、義元は今川家当主を宣言し、群雄としてのスタートラインに立つことになる。
群雄として名乗りを挙げる!今川義元!
今川家の当主になるのにもこれだけの事件が義元の身にふりかかりました。義元はこの出来事を自らの力により決着を付けたことになります。もちろん義元に協力する太原雪斎を始め重臣達の働きもありました。
義元は名門と言われる家に産まれ付いたが、今川家の当主の座は自らの力で勝ち得たポジションで、名門の上にあぐらをかき、興にふけっているような呑気で愚かな人物ではなく、乱世を生き抜く為の素養を持ち合わせていた強靭な人物だったのではないでしょうか?。
群雄戦国大名としてスタートラインに立ったここからが義元の本領発揮です。
激戦区といわれる関東から東海の諸勢力と渡り合っていかなければなりません。義元が愚かな人物であれば、信長との対決の前にとっくにどこかの勢力の餌食になっていたでしょう。
次回は関東の強敵達とどうのように渡り合っていったのか、今川義元の足取りを追って行きたいと思います。
次回に続く⇒
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