久々の大戦!大阪の陣
前回記事の続きです。前回農民は食うに困り職を求めて戦場に出稼ぎに出、秀吉の全国平定により戦争が激減したところまでを書かせていただきました。
今回は時は流れ、家康が幕府を開きいよいよ豊臣を滅ぼそうと動き出した頃のお話です。この時代になっても戦場はやはり百姓にとっては魅力的な働き場所であった。当時いよいよ大きな戦が始まるぞと全国が浮き足立っていて、農民や百姓達はその動向を伺っていた。後の大阪の陣である。
百姓達にとって、関東軍も豊臣も関係ない。職を募集しているのであれば、そこに向かうまでなのだ。戦争があれば農繁期であろうが、土地を離れ出稼ぎに向かおうと考える者達が多く居た。
とくに大口に職を募集したのが、大阪方であった。大阪城には元武家奉公人(戦場での職をう失った失業者)や農民百姓が故郷を離れ、出稼ぎにやって来て大阪城はこの者達で埋め尽くされていた。江戸の初期の頃であってもこの様で、人々の生活は相変わらず苦しかった事を物語っている。
この農民や百姓達の故郷は当然関東方(徳川幕府の勢力化)の領地に属する地域も含まれていて、それでも尚大阪に向かう者が後を絶たなかった。関東型でも兵役の募集がありそこに向かった者もいた。
関東方の例で前田家が期間限定で兵役の募集をした。雇用条件は一年程の契約で、戦争(大阪豊臣との)が続く限り解雇はしないといった、内容だった。しかし大阪の陣は予定より早く終わってしまったので、募集で雇われた者を全て解雇している。
大阪の陣は冬、夏の2回にわたり行われたが、夏の陣の折、あまりにも大阪方に向かう者が多かったため、家康は各村に「もし雇われて奉公につけば、子々孫々、親類までも成敗するぞと」と必死の脅しをかけていた。秀吉と同様、家康も土地を離れ戦場に向かう出稼ぎ百姓達に頭を悩ませていたようだ。
なんとしても、戦場へ
こういった幕府からの脅しがありながらも、久々の大きな戦争での稼ぎを逃すまいとして、多くの農民、百姓が大阪に向かったのだ。
ここで一つ面白い話がある。この大阪方に走る百姓や農民を監視する為、幕府方の大名は、各村に奉公人(監視役)を派遣し、これらを取り締まった。そこで戦場に行きたい百姓や農民を、監視の目を潜り大阪に送るブローカー業をする者まで現れたほどだった。
戦争とはそれほどまでにして行く価値がある稼ぎ場であり、人々のニーズが高かったのだ。
これ、以外な感じがしませんか?
イメージとして誰もが戦争のない世界を目指していたようなイメージがありますが、人々は食う為に戦場を必要としていたのです。「捕虜 人取り競争。それは食う為に農耕と同じように行われていた。」の記事でも紹介しましたが、日本に滞在していたルイス フロイスは「西欧では領土拡大が戦争の主な目的であるが、日本の場合は食う為に戦争を行っている」と書き残しています。
食うため意外にも僅かな可能性を求め出世を目指した者達もいたであろうが、殆どの人々が失業者(傭兵専門の人々)や農民や百姓達の生活が苦しいが故の戦場への出稼ぎであって、当時の人々が武士になり出世しようと夢いっぱいで戦場に向かったわけではなかったのです。
スポンサーリンク