戦場に出稼ぎする農民
戦国の世で大出世を果たしたのが豊臣秀吉であった。世の中が下克上であったのは確かだ。百姓が出世を目指し田畑、家を捨て奉公を目指し旅立って行く・・・当時の若い農民や百姓になんとなくこんなイメージがりませんか?
きっと当時の若者にもこういった人達は沢山いたでしょう。現在の人間だって都会に出て一旗上げようと思う人が居るのと同じだと思います。
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こいった若者が純粋に成功したいと願い、奉公を目指し戦場に出稼ぎに行く夢いっぱいのお話ではないのが、当時の現実だったようです。農民達は農耕だけでは、生計が成り立たず兵隊を兼業していたとの見方の方が正確なようです。食糧、金銭のやりくりが現在の私達が想像するより遥かに厳しかったようだ。
中世の日本での兵役はどの国でも、戦争があれば発動される法であって、農村の人間が強制で徴収される。一般的なイメージで泣き叫ぶ嫁や子をなだめ、悲壮感漂う中で戦場に向かう画が浮かんできます。もちろんこういった想像は間違っていないでしょう。家の働き手を戦場に連れていかれてしまうわけですから。
しかし現実は農耕の営みだけでは、とてもとても家族を養いきれないので進んで戦場に出稼ぎに行く者達も多かったのも当時の現実だったようです。
兵役を肩代わりする傭兵
農民、百姓の中には土地を捨て戦場ある所に仕事を求めて諸国を巡る者達が大勢いた。というか、あぶれていたようです。
通常、当時の徴兵は集落の規模ごとに徴収される人や馬などの人数が規定されていて、これに応じるのが集落の義務であった。どうしても村事情で働き手を戦争に送りたくない場合、代理人を村で雇うのです。
この雇う人間が諸国を巡る人々でした。この者達の中には兵隊を専門としている傭兵のような人間も多く含まれていた。もちろん盗賊などをするゴロつきも含まれる。
しかし彼らは、兵隊職を求めてはいるものの、その目的は戦場での手柄よりも略奪が主だった目的で、この傭兵ばかりで編成される軍は非常に質が悪く戦場では人取り、略奪に夢中になり軍事はそっちのけの状態だったようだ。
当時の領主や大名達は徴兵の際、この問題で相当頭を悩ませていたようです。
兵役をこなせば、お得な得点がつきますよ!
大名達は徴兵の際、代理人ではなくちゃんと村から兵を出すようにと、いろいろな好条件を出し兵隊を募集していたようだ。そうでもしないと、集まる兵は質の悪い者達ばかりになってしまう。兵役をこなすといろいろ得点がありますよと触れて回らないと農村からの兵が集まらない当時の事情があった。
ここら辺の募集の仕方、現在の企業の勧誘に似てて面白いですね。
農村で代理人を雇うことができるような村はある程度運営がうまくいっている比較的裕福な村だ。代理人を雇うことが出来ない集落ではやはり働き手が戦場に向かう。上でも少し触れたが、戦場に向かうとなると、ネガティブなイメージが付きまとうが、戦場こそ、農民、百姓の最大の稼ぎ場であった。
これが中世日本の現実であった。
戦争の終焉へ
さて時代は戦国終焉へと向かっていくが、それでも人々の生活が楽になったわけではない。むしろ戦場がなくなり人々の生活はより困窮したようです。秀吉が全国平定へと駒を進めていく最中、各地の農村では深刻な過疎化が問題になっていたようだ。
日常化していた戦争の数が減り、人々は食うために職を求めて故郷を出て、田畑を耕しジリ貧になるより、武家奉公を目指したり、職人、町人の道を百姓達は模索した。こうした傾向が各地での過疎化を激化させ、各農村からの悲鳴が秀吉に上がってきていたのだ。
ここで秀吉は、百姓が農村を捨て土地を離れてはならない、又はそれを雇う者も厳罰に処す的な法令を敷くが、これは当時の農村を貧しさから救う根本的な対処になっておらず、さすがの秀吉もこの問題には相当頭を悩ませたようです。
こうして、戦場という働き場がなくなった、百姓達は中央、あるいは地方の都市へと群がっていき、地方での過疎化は深刻になったいった。
豊臣政権は戦国を終わらせる一つの終止符の形を示すが、それは人々の生活の営みを大きく変えることであり、その反動による歪がもろに明るみになった政権でもあった。戦争が無い=幸せではなかったようです。
農民や百姓は何も、武士になりたくて、戦場に出稼ぎに出ていたのではなく、戦場こそが稼ぎ場で、食うための職を求めて兵隊を兼業していたのです。
次回につづく⇒
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