北条氏康、死線を潜り抜け関東の雄へと飛躍する。河越夜戦!

北条氏康の名采配。

軍の編成 組織 役職

世に言う河越夜戦(かわごえよいくさ)少数の部隊で大群を破る話しは古今東西にあり、それらはどれも胸を熱くさせられます。

北条氏康_01

日本の戦史においてもこういった話は少なくない。けれども、いわゆる戦国時代になると、番狂わせ的な展開は殆ど無くなります。当時の日本全体の戦争の数から比べると小数が大部隊を破る戦いはそう多くありません。戦争はその行為に至る前の国の規模やどれだけ多くの人間を掻き集められ、どれだけ多くの食べ物、物資を準備できるかで、その形勢がおおかた決まってしまうようです。

その数少ない戦いの内の一つをやってのけたのが北条氏康さんでした。楠木正成や源義経等の天才軍人に匹敵する名采配を北条氏康さんは河越夜戦で見せてくれます。

河越城は現在の埼玉県川越市にあった城で、名将太田 道灌(おおた どうかん)が築いた関東の重要拠点でありまた。この河越城は北条氏康の父である氏綱が古河公方、山内上杉と扇谷上杉が仲たがいになり争っている混乱に乗じて、武蔵国に侵攻し江戸城を落とし次いで扇谷上杉朝定の居城である河越城を落とした事により北条家の勢力に組み込まれていました。

この北条氏綱の武蔵国侵攻のため扇谷上杉家は窮地に追いやられていた。氏綱は武蔵国だけではなく、今川家の領国である駿河東部の制圧も成功させており北条家の勢い目覚しい時期でした、早雲に負けず劣らずの名将北条氏綱ここにありといった所でしょうか。そんな折氏綱さんが死亡し、後を氏康に託します。

当主就任早々、大ピンチ!

出る杭は打たれる。今も昔も同じです。北条家の飛躍は多くの勢力の恨みを買うことでもありました。そんな中での北条氏康の当主就任でした。

当主就任早々、氏康は未曾有の大ピンチを迎えます。駿河国の今川義元が奪われた領地を奪還する為攻勢に出ます。

今川義元は関東管領の上杉憲政に北条を討とうと話しを持ちかけた所、上杉憲政はこれにノリノリで挙兵します。さらに今川義元は武田晴信にも協力を願い今川と武田が北条の領地である駿河東部に押し寄せてきた。氏康はこれに対抗しようと兵を起こすが武田が介入してきたため旗色が悪い。

さらに両上杉氏(山内上杉憲政、扇谷上杉朝定)は仲たがいしていたが打倒北条の為手を組み河越城を包囲する構えをとった。北条氏康は当主就任早々、大包囲網を食らう形となり、窮地に陥った。

いかな名将北条氏康といどもこれでは手の打ちようが無い。

たまりかねた氏康は武田晴信に今川義元との関係修復を願った。晴信は義元と氏康の間に入り、北条家が占領した駿河東部を今川に返還する条件で関係改善を了承する形に収まり、氏康は西の脅威を排除する事に成功し、武蔵に侵攻してきた両上杉氏に的を絞ることができるようななった。

とはいっても両上杉の軍は大群だ。河越城には、北条綱成が3000の兵で篭っていたが3000ではどうにも手のうちようが無い。ただただ城に篭り小田原氏康の援軍を待つしかなかった。

さらにさらに氏康の妹婿である古河公方の足利晴氏は路線変更し、両上杉方に組みした。両上杉氏、古河公方の足利晴氏は関東の諸勢力に号令し、この関東連合軍が河越城を包囲する形となりその数8万とも9万とも言われるとんでもない数だ。

しかし氏康は屈しない。この連合軍と事を構える気でいた。その為に駿河東部を今川に返還し高い代償を払ったのです。氏康の気骨はしっかりと早雲と氏綱から受け継がれていました。

地図1545北条包囲網

氏康さんは複雑化してしまった問題を一つに絞り込むことによって、そこに全てを投入する方法で事にあたりました。凄い精神力ですよね、管理人のようなショボイ人間なら即効で媚びへつらうか、恐怖で混乱し投げやりになったりすること間違い無しなのですが、氏康さんは違います。恐怖に支配されず冷静に勝てる要素を荒い上げ事に挑みます。

今川武田の両氏をおとなしくさせ、関東連合軍(両上杉、古河公方の足利晴氏)が包囲する河越城に一点集中するわけです。とはいってもその数8万とも9万とも言われる大群です。さてこの大群に対して北条氏康さんはどう対抗していったのでしょうか?ここからが世に言う河越夜戦の開幕です。

北条氏康、日本の戦史に残る大逆転を見せる!

関東連合(両上杉氏、古河公方)は8~9万の大群で河越城を包囲、対する河越城には北条綱成指揮する兵3000が守備。ここまでよく持ちこたえているが兵糧も幾ばくももたない状況だ。関東連合は大群で押し寄せてきている為、余裕の構えだ。

天文15年1546年4月北条氏康は馬廻衆精鋭8000を率い出陣、武蔵国の府中三ツ木(みつぎ)に陣を構えた。しかし関東連合軍の前ではすずめの涙ほどの兵力。

河越夜戦_01

氏康はまず、河越城を守る北条綱成の弟である弟弁千代(べんちよ)を城内に派遣する。弁千代は単騎で関東連合軍をすり抜け城内潜入に成功し、氏康の援軍到着と氏康には決戦の意思がありと作戦について報告し城内を盛り上げた。

さらに氏康は関東連合の各部隊に間者を放ち徹底した情報収集をした。各隊の配置や命令系統、合言葉、部隊の士気等を探る為、情報ケーブルを張り巡らした。これと同時に氏康は入間川付近に陣取る憲政軍に軽く攻撃を仕掛けては逃げ帰る事を繰り返し、策が無くとりあえ苦し紛れにちょっかいをだしている体を装った。

河越夜戦_02

連合軍はこの氏康は兵が少ない上に弱く、かつての父氏綱のような脅威はないと侮り完全に戦勝気分が蔓延していた。

氏康はさらに敵方に北条弱しの思いを植えつけるため連合軍側に城内の兵を助命してくれれば城は明け渡しますと偽りの降伏を申し出ているが、連合軍側はこれを拒否し、完全に北条をなめ切った空気に包まれていた。

氏康は決戦の準備が整うまでこうして時間を引き延ばしていた。

連合軍の士気は緩みに緩みきっていた。「よし!時は来た!」氏康は動き出します。ここで氏康は自軍に作戦の徹底をはかります。兵隊達を軽装にさせ、自軍と敵軍を区別する為自軍の合印は白と定め、敵軍にも白を着衣している者は斬ってはならないと厳命し、首級をとる暇があれば一人でも多く斬ること、また人数を多く見せるためとにかく動き回れ、合言葉に応じない者は切り捨てよと、全軍の意思統一を図った。

4月20日夜、氏康は部隊を4隊に分け一隊は後詰として待機させ、氏康自身は残り3隊を引き連れ連合軍の陣に突撃を開始した、連合軍側は大混乱、逃げ惑い夜の為同士討ちが多発して軍の指揮系統は乱れに乱れて、皆逃げることに夢中になり連合軍の大部隊は総崩れとなった。

氏康軍が猛烈な追い討ちをかけている所、待機中部隊の指揮官多目元忠が後方より戦況を監視していた。深追いを危険だと判断し法螺貝を鳴らし氏康を引き上げさせた。これに乗じ河越城から北条綱成が打って出て朝定や晴氏の部隊に襲いかかり、こちらも大混乱!

こうして連合軍側は潰走してしまった。大軍団がほんの僅かな時間で蹴散らされてしまった。

河越夜戦_0

この戦闘で上杉憲政と足利晴氏は戦場を離脱できたが、上杉朝定は乱戦の内に討ち死に。連合軍側の死傷者は1万3000にも上ったという。方や北条氏康軍の被害は100人にも満たなかったようです。

北条氏康軍の快勝でした。

この河越野戦の話は資料も貧しく、後世の物書きが書いた資料や軍記物が参考にされていて不確かなことも多く全てを鵜呑みにする訳にはいきませんが、北条氏康の人生最大のピンチで、お家滅亡寸前の所であったであろうことは想像できます。この戦いの後、両上杉氏の衰えは著しく方や北条氏康は大きな飛躍を遂げています。北条氏康は早雲、氏綱に続き名将として名を轟かせ関東の雄へとなっていきます。

この戦いは氏康の軍人としての凄みを物語っていますが、氏康を始め後北条一族は政治家、指導者としても大変優れていました。この後北条家領内の税収システムや政治システムは非常に民政を重視した物で後北条家の繁栄の基礎を支えていました。氏綱は息子氏康に心得五箇条(詳しくは)を残し氏康はよくこれを守り国家統治の教えとして規範とし謙虚にそしてしかるべき時には大胆に行動していったようです。

そんな北条氏康さんの武勇伝でした。

北条氏康_02

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