武田信玄、戦国武将としての心得を家康に叩き込む。三方ヶ原の戦い!

三方ヶ原の戦い

月 桜

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1573年(元亀3年12月22日)遠江国の敷知郡(ふちぐん、ふちのこおり)にて、家康VS信玄戦が行われます。世にいう三方ヶ原の戦いが行われた。

この戦いで徳川家康(当時、松平元康、今後家康と表記します。)は武田信玄から多大な影響をうけます。家康は大負けするも、武田軍の見事な用兵術に魅了されます。

さて、まず三方ヶ原の戦いがどのようないきさつで、展開していったのか状況を追っていきましょう。

*三方ヶ原までの経過を読むのが面倒な人は下の方に動画があるので、そちらをご覧下さい。

<家康と信玄>

kantou_A_01 まず武田軍は当主信玄の方針で信濃侵攻を展開しており、北信濃の覇権を巡り越後上杉謙信と抗争していた。永禄4年の川中島の戦いから、終息に向かい信濃は大方武田方の勢力下に収まって行く。

このころ、武田家と同盟関係にあった、駿河国当主今川義元尾張の織田信長に討たれ、今川家では当主交代により今川氏真が当主となったが、混乱を招いていた。

ここから、関東圏の勢力バランスが大きく変わり始める。 このタイミングで、今川家に従属していた徳川家康(松平元康)は尾張国織田信長と同盟を組み三河国で独立勢力として、今川家から独立する形をとる。 kantou_A_02 一方、武田信玄は、上杉謙信との抗争もようやくひと段落し、ここで大きく方向転換し、弱り始めた同盟国今川氏真の駿河国に矛先を向ける。

武田家はこの頃織田家とも同盟関係にあり、信長の美濃侵攻を傍観していた、信玄は北条家との関係がこじれた場合さらに西にも敵を作るのは良しとせず、美濃への干渉はしなかった。

また信長も美濃攻略に、信玄が介入してくると絶望的な状況になるので、信玄には相当な気を使っていました。

<駿河侵攻戦>

(駿河侵攻戦の詳しい内容は別記事にて紹介します。ここではザックリと流れだけの紹介です。) 1568年(永禄11年)武田家は正式に今川家との同盟関係を破棄します。

ここから信玄と家康は歩み寄り、駿河侵攻を共同で行うよう持ちかけ、駿遠(すんえん・駿河と遠江)分割を密約した後、駿河に軍を侵攻させます。

しかしここで問題が生じます。今川家は当時、相模国の北条氏と同盟関係にあり、また武田家も北条氏とは同盟関係にありました。

信玄が駿河に侵攻すると、北条氏康はこれに激怒、人にあるまじき行為とし今川方に肩入れし信玄に牙を向けます。

しかも北条氏康は、信玄と敵対関係であった、越後上杉謙信に呼びかけ、越相同盟を結び、武田家に圧力を加えます。この時点で武田、今川、北条、による三国同盟は完全に瓦解します。

さらに、駿遠の分割のことで、家康と信玄は決裂し、家康は信玄に矛先を向けるようになります。信玄のこの時の状況はかなりまずい状態で、四方八方が敵という状態に追い込まれす。

信玄の駿河侵攻は、北条、徳川に挟撃される形になり、しかも、後方の上杉謙信にも注意しながらの綱渡りになっていた。 kantou_A_03 しかし、北条、上杉の越相同盟は軍事同盟としはすこしお粗末で実際には、あまり機能していなかった。

信玄と決裂した家康は織田信長と同盟関係であったが、信長もこの当時自分達の事で手が一杯で信玄と関係が縺れるのを嫌って、家康に信玄との再協定を促すが、当時家康は独自に行動していた。

そこで、信玄は信長の態度を知っているので、信長を使って足利義昭から、越後上杉謙信に信玄との関係を修復するよう働きかけ(甲越和与)を締結した。

これは信玄の後方への憂いを除くほか、上杉、北条の連携を妨害する役目も果たす。

さらに元亀2年に北条氏康が死亡し、北条家当主は氏政となる。これを機に武田家と北条家は再び同盟を結び甲相同盟(この同盟は、お互いの領土を侵略しないという、不可侵条約)を締結させる。

この時点でようやく信玄は駿河を占領する事が出来た。

信玄は一時期ピンチに陥るがこうして、後方の憂いを取り除いき、矛先を遠江、三河へとむけるのである。

このころから徳川家康の雲行きが怪しくなってきました。

*元亀2年2月16日の遠江、三河侵攻について

(さて三方ヶ原の戦いが行われた、信玄の西上作戦の前に、定説では信玄は元亀2年2月16日に甲府から出陣し大規模な遠江、三河攻めを行ったとされています。しかし近年、鴨川達夫氏の武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像 (岩波新書)で、この戦いは天正3年武田勝頼の代での出来事ではないのか?と提唱していて、歴史を見直す作業が行われているそうです。詳しくは別記事にて紹介しますが、たしかに従来説であれば、元亀2年2月16日の時点では信玄は上杉謙信、北条氏康とも敵対状態です。信長とは友好関係ではあるが、もしここで徳川領に侵攻していれば、信長との関係がわるくなる可能性が多きい。しかし、信長との関係は元亀3年10月頃、(信玄の西上作戦が始まる前)まで友好的であるのだ。まだ北条氏康も健在で甲相同盟も成立していないため大変リスキーな出兵と考えられ、この戦い自体が無かったとする見方には大変説得力があります。元亀2年2月16日の遠江、三河侵攻についての話は従来説も含め別記事にて紹介します。)

kantou_A_04 因みにこの時期に織田信長は、足利義昭との関係が悪くなり始めていた。

 

<信玄西上作戦~三方ヶ原の戦い>

こうして信玄は反信長勢力と歩調を合わせ、三河、遠江への進行を開始する。

ここからは、動画になります。よかったら見てみてください。(重い動画なので、見れない場合は申し訳ありません。再生にはQuickTimeが必要です。)

三方ヶ原の戦いprta1

三方ヶ原の戦いprta2(ただいま作成中)

この戦いでの家康さんは、まったくいいところがありませんでした。

彼にはもうひとつ武田の軍門に下るという選択肢もあったと思います。まあ織田援軍が到着してしまった時点からでは難しいでしょうが、そういう選択肢もあったはずです。

織田方の将達は戦力として徳川に送り込まれたというより、監視役として派遣されたニュアンスが多分に含まれています。

例えば、三方ヶ原でいざ信玄と戦闘になった時、織田方の将の水野信元と佐久間信盛が家康本陣の横にびったりと張り付いていました。

これは家康を警戒している様に見えます。信長から、くれぐれも家康におかしな行動をとらせないようにと言われていたのでしょう。

家康が頭のなかで武田の軍門に下ろうと少しでもよぎったのかどうかは分かりませんが、彼は徹底抗戦しました、最後まで。

晩年の冷静沈着で思慮深く、ニヤニヤしながら、策をめぐらしてるイメージの家康さんの根底にはこの強烈な反骨精神が宿っていることが伺えます。

それと家康は生涯を通じて強運の持ち主でもありました。その分障害もてんこもりでやってくるのですが、今回の戦いで逃げる際多くの部下を失っています。

しかし家康自身も生還出来た他、今後の徳川家拡大の大きな原動力になる、石川数正、鳥居元忠、酒井忠次、榊原康政らの将達は、信玄の猛攻から見事生還しました。

ここに家康のしぶとさと強運を持ち合わせていることが伺えます。しかも信玄は陣中で死亡してまうわけですから、小説の中での出来事のような話です。

信玄は家康の脳裏に強烈な印象を植え付けこの世を去りますが、その後家康は信玄の残したあらゆる物をフォーマットにしたり取り入れたりしながら、幕府を開き豊臣を滅ぼすまで駆け抜けます。

信玄は家康にとって模範となる先輩であり先生であり、そして家康は信玄の後継者のようにも見えます。

-記事、動画の製作にあたり参考、使用させて頂いた書籍やサイト-
BGM>
甘茶の音楽工房様   http://amachamusic.chagasi.com/index.html
Music-Note.jp様  http://www.music-note.jp/terms/index.html
SHW様  http://shw.in/
書籍 サイト>
図説戦国合戦地図集―決定版 (歴史群像シリーズ)
戦国関東三国志―上杉謙信、武田信玄、北条氏康の激闘 (歴史群像シリーズ (2))
城と戦国浪漫 http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/history/03/mikatagahara.html
図説 日本戦陣作法事典