戦力として雇われる悪党と傭兵
戦時下において相手側に勝つためには、とにもかくにも人数が必要です。そのため農民は徹底的にかき集められます。
しかし、集められるメンバーは農民だけではありません。山賊や海賊等いわゆる暴力団を組織している武装集団連中も雇うのです。こういった組織を悪党と呼んでいました。この悪党は鎌倉時代の辺りから急激に増えていったそうです。
戦時下においては領主や将達は彼ら悪党を積極的に採用していました。戦争という状況下においては、勝つ為であればなんでもござれ!の無法状態な為、戦場は悪党達には格好の稼ぎ場所と化していたのだ。
特に戦時下においては、殺人、強姦、略奪、焼き討ち、人身売買、悪の限りすべてが、黙認されるのである。
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しかし、人間であれば、この阿鼻叫喚の状態を快く思わない将達もたくさんいたでしょう。ここで問題が生じます。もし悪党達の行為を軍令で取り締まろうとすると、たちまち相手方に付いてしまうのです。
彼らには、武士としての規範など無く、自らの利益のみで自由気ままに、行動をしている。相手方から、賄賂をもらえば、簡単にそちら側に組し、裏切りだとか、義理などどうでもよく、自分達の生業を黙認してくれる側に付いてしまうのです。
悪党や傭兵達は組織化されており、普通の農民達よりも遥かに戦闘や殺人に長けていて軍に編入すれば馬鹿にらない戦力になる。
もし敵方にごっそり移動されようものなら戦局がひっくり返ってしまう恐れがある。なので将達はこれら、悪党達の行為を黙認せざる得なかった節があるのです。略奪、人取り、破壊が彼らの収入源だった。
平時化においては、悪党や傭兵集団は領主などからアウトローとしてマークされる立場であるが、戦時下においては有用な戦力として積極的に用いられた。
領主も取り締まりをしていたのであろうが、自分達の食い扶持に大きく影響する場合のみであって、ちいさな村落などは、放置状態であったのだ。というより手に負えないのです。
こういった背景を大いに利用して、当時の悪党達は、戦場で集落や町、寺があれば、見境なく襲撃し財産を増やしさらに組織を大きくし、大名や領主達に自分達を売り込んでいったのです。
しかも彼ら悪党や傭兵は領主達に、いわゆる主従関係で仕えているわけではなく、戦時下において一時的に雇われている状態なので、彼らを軍の一員として家臣を扱うのとは、まったく違うコントロール術が必要だったのだ。
悪党といっても、そのあり方は様々
上に書いた傭兵や悪党彼らはいわゆるアウトロー。土地に土着しない連中だ。そして悪き行いをする意味で悪党と呼ばれる連中だ。
武士や、農民達は言い換えれば土地に縛られているている存在だ。
彼らのような、アウトローからは税金が取れないのだ。これは権力者側からすると、非常に都合が悪く目障りな存在だ。
破壊や殺戮のみを生業にしている連中も多かったが、悪党、アウトロー的な活動をしている者達にも、その種類はいろいろあったようです。
上の悪党の他に、悪事を働く悪党の意味ではなく、規律や制度、支配体制に従わない、独自の価値観で活動をしている意味で悪党と呼ばれてる連中がいた。
例えば、各地を旅する僧であったり、旅芸人等もある種、支配体系の外側に位置する存在で彼らも悪党として、認識されていたようです。こういった人達は少々変わった服装をしていたそうで、そういった面からも、異色な人々だった。
鎌倉時代に入り安定期に入ると、大きな乱世は去ったものの、悪党が活発になる。
領主と本所の間でいざこざが絶えず、幕府に不満をもつ領主層が増え始め、これらも悪党と見られようになって行き、この紛争に土地の支配体系の外側にいる悪党組織が介入し始める。
有名な楠木正成も悪党と呼ばれていましたが、彼らのような豪族も独自の情報網と、流通ルートを持っていて、それら情報源や売買ルート等も悪党と呼ばれる連中からもたらされていたのです。悪党も世の流れの変化に大きく関わっていました。
悪党はただのゴロツキ連中もいれば、世の中の行く末に大きく影響する勢力もあり、単純に悪党と一括にはできない勢力でした。
悪事のみを働く意味だけで、悪党と言う言葉が使われていたわけではなく、権力者側からみて都合の悪い連中を悪党と呼ぶ意味でも使われていたました。
特に鎌倉時代に悪党の勢力は増大し、幕府もこれには相当手こずったようだ。
しかし、土地に侵入し、略奪、強盗、人取りを行う連中は、時代を問わず存在していました。
これらの被害を被るのはいつも農民で、真面目に耕作を営む人達でした。
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