”生きる”事自体が困難で難しかった。
管理人は昔々学生の頃、日本での乱世、戦争が日常化していた時代は、その国ごとにある程度、貯金とういうか余剰が出来た時点で初めて軍事侵攻を起すをものだと思っていました。しかし、そんな生ぬるい時代ではなかったと言う事が、近年沢山の研究家の書籍のおかげで伺い知ることが出来た。
現在でさえ世界的に見れば、食う事にすら困って飢饉に苦しんでる割合がいかに多いか。近代化した現在ですらこの様なのだ。当時の戦い、戦争とはこういった”生きる事”自体が困難な事から来る、根源的な動機から発生しているという視点がもろに欠落していたなーと思います。
他国に侵攻するにあたっての目的とメリットは、侵攻先の食糧、財産、人間(人取り)による収入であった。
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こうして他国のものを自国に持ち帰り国内の飢えを凌いで行く事が当時の戦争の目的で、食べる為、生きる為の手段であったようです。
それだけ世の中が、ただ”生きる”事自体が困難だったということです。
日本でこの掠奪や人取りがいつ頃から行われていたのか?正確な時期は特定できないようです。
ここで藤木久志氏の書籍を参考にさせていただきます。
十世紀頃の日本
承平7年、937年まで遡ります。平良兼(よしかね)軍が平将門の館を襲撃した様子が残っているようです。
「未だ合戦いくばくならざるに、伴類、算のごとく打ち散ず。のこるところの民家は、仇のために皆ことごとく焼かれ亡びぬ。郡の中稼稷(かしよく)、人馬ともに損害せられぬ。」
-雑兵達の戦場より抜粋ー
将門が被った被害の様子です。
まだ戦いが始まったばかりなのに、兵は散り散りに逃げ、作物も馬も奪い去られた。将門の財産や妻子はみな上総に持っていかれ、またその周辺にすむ人々は、下級兵、雑兵のような連中当時は伴類(伴類については⇒)と呼ばれる者達によって連れ去られていった、ということだ。
また、将門が新皇となった後、
「「女人の流浪するを属に返すべきは、法式の例なり」と宣言していた。奪いとった人を戦いの後に返し合うのは「法式の例」だという。もしこの文字通りならば、すでに十世紀の半ばに、戦場の人の掠奪もその互いの人返しも「法式の例」、つまり、もとは国法に始まり、戦後処理の習俗ともなっていたことになる。」
-雑兵達の戦場より抜粋ー
こういった例からも、日本でかなり昔から掠奪や人取りが行われていたようだ。日本では、おそらく国内の農耕だでけでは、人々が食べて生きていくにはとても苦しい状況だったのでしょう。
特に戦国時代における、各大名間の領土争いを描く時、とかく政治目的や各人の思想、理想、権力欲や人情劇といったところにフォーカスされ、実はもっと根源的な人々の飢えから来る、生存本能に根ざした理由が戦争の目的だったように思います。
それが全てとは当然言えませんが、人々が抗争する原因の根底にあったものだと思います。
庶民、農民達は戦争がある度に徴兵され、強制で参加させられる側面もあるが、やはり農耕だけでは、家族を養いきれず、進んで戦争に出稼ぎに行く人間も大勢いたようです。目的は戦地で掠奪を行えるからです。
戦国時代の関東圏で大きな勢力を誇っていた、武田氏と北条氏。
この両氏の国内が比較的安定していて裕福で善政が敷かれていた、という話を聞いた事がありませんか?これは両氏が決して国内が戦場にならないよう強大な軍事力を所有していたからです。北条氏の場合はちょくちょく侵攻されていましたが。
その軍事力を増大そして維持するには、とにかく他国へ侵攻し敵地のありとあらゆるものを自国へと編入していく事で、それを可能にしていたのです。国内の農民達がある程度の生活ができていないと、大きな軍を保てないし、遠征も出来ないのです。
両氏とも初期の頃の国内の生産だけでは人々が食べていけなかったのです。
農民達がある程度食べていけるようになるには、農耕だけでは賄いきれず、他国への掠奪と人取りが大きな生活の収入原になったいた。
言い換えれば兵隊を兼業せざるえなかったのだ。上に出した例のように、こういった状態はかなり昔から行われていたようです。
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