日本人傭兵軍団。海を渡り異国で暴れ回る。

渡海を始める傭兵達

軍の編成 組織 役職

日本の中世期で、盛んに奴隷ビジネス(詳しくは)が行われていたことを別記事でも紹介しましたが、この流れは国内だけの話しではありません。日本は信長が殺され、次に秀吉が台頭し、その次に家康が政権を開くという、目まぐるしい状況変化が起こっていました。

このころ日本の外では、大航海時代でした。スペイン、ポルトガルが物凄い勢いで各国を植民地化していきます。しばらくするとそこに、オランダとイギリスが割って入ってくるわけです。この競争は激化しそのエリアは東南アジアにまで及び、激戦が行われていました。

この影響は当然日本にも流れて行き多くの商人や宣教師達が日本に上陸したことは、皆さんもご存知だと思います。

スペイン・ポルトガル、イギリス・オランダは日本を東南アジア戦争の戦略拠点として使っていたのです。具体的に言うとですね、武器や食糧、人員等を日本で調達していたのです。この頃日本はどこにも肩入れをせず、自由に商売をさせていたようですね。

こういった流れの中で、多くの日本人が外国へ流出していたそうです。当時どの位の数が日本を出ていったのか正確な数は分かりませんが相当数いたようだと言われているそうです。この海を渡る経緯は人それぞれで自らの意思で渡海する者もいれば、商人に買われて労働夫としての者だったり、奴隷であったりと様々だ。

例えば、失業者、商人、追放されたキリシタン、海賊や船乗り、彼らは自ら新たな稼ぎ場を求め海を渡って行った。これ以外にも西欧人に金で買われたり、あるいは雇われたりした者達だ。捕虜や奴隷、傭兵、船乗り、伝道者(伝道師)等と様々であった。

上に書いたが日本はこの頃、秀吉から家康へと時代が流れて行き、戦場を糧にしていた者達の居場所が少なくなっていた頃だった。だが、国外では、イギリス、ポルトガルらが東南アジアで熾烈な激戦を行っていた為そこには、まだまだ大きな需要があったのです。こういった背景があり、多くの日本人が海を渡りアジアに散らばっていきました。

日本人傭兵に手を焼く西欧の指揮官達

こういった者達が現地につくと、水を得たように戦役につき槍や刀を携え大暴れをしていたそうだ、日本は役150年もの間、戦闘に明け暮れた民族で、その猛勇ぶりは諸外国の人間達を大変に驚かせていたようだ。

イエズス会のカブラルは「日本人は長らく戦乱の中に居たため、大変に勇敢だ、陸/海において大変な戦力とる」と国王に報告し、日本人を雇い中国を征服しようと進言している。だが・・・この見方は完全に目論み違いだった。

この日本人達は猛勇ではあるが、西欧のアジア占領軍からすると、大変扱いの難しい荒くれ者達なのだ。

日本国内の戦争でも村から徴収される正規軍の他に、乱波(らっぱ),透波(すっぱ),突波(とっぱ)等と呼ばれる(詳しくは)、あるいは悪党等(詳しく)、武士や農民ではない、傭兵も雇っていたが、海を渡って兵役に付く日本人もこの乱波(らっぱ),透波(すっぱ)、悪党と呼ばれるもの達の類だった。

マニラには日本から連れてきた、傭兵や奴隷等を隔離する施設があったそうだ。当時この施設の近隣では日本人達は非常に評判が悪くその暴れっぷりが非難されていた。

当時マニラで中国系住民が占領軍への反乱を繰り返していた。占領軍はこの鎮圧に施設にいる日本人5百程を投入して鎮圧したが、その後施設にいた日本人自らが暴動を起すようになっていたそうです。

兵隊として勇敢で強いのだが、扱いが難しかったようだ。西欧人達は日本人達を雇いながらも、中国人よりも好戦的で我が地域を荒らし回る厄介な奴らだと、扱いに困っていたようだ。

こういった暴動等を指揮した有名な人物が山田長政だ。彼の場合タイであったが、傭兵達を引き連れ暴れ回っていた。この方は元々大久保忠佐(おおくぼ  ただすけ)に仕えていた下僕であったようです。

さてマニラに話しが戻りますが、1608年に日本人が大暴動を起そうとしている状況になっていた。

ここで当時の総督は遂に手に負えなくなり、日本人の退去を命じ、さらに幕府側に抗議をしている、「お前らんとこの兵隊はとても扱いきれん、荒くられ者で手に負えない。なんとかしろ」と言った具合だった。

まあしかしこの言い分は西欧人の勝手な言い分だ。彼らとて自分達の欲の為に各国を無慈悲に植民地化してきたわけで、その事業に必要だから日本人奴隷や傭兵をその性質をよく理解せず、安値で買ったり雇ったりしていたからだ。自業自得である。

時にこの時の日本の将軍は徳川秀忠でした(家康も健在)。秀忠は西欧の植民地争いへの日本の介入を望んでおらず避けていた、そこで秀忠は「そちらで悪さをする日本人達は、そちらの現地の法に則って処分してもらって構わない。」と突っぱねている。が、これは幕府が在住日本人を切り捨てたとも言える。

日本傭兵軍団。海を渡り異国で暴れ回る。

西欧人は日本人のその強さを大いに利用するつもりだったろうが、大きく見誤ったようだ。

当時の日本の軍隊は武士と農民で構成され規律や軍法が厳しく強い軍隊であったが、その強さを支えたいたのは、表側で活躍するもの達だけではなく影で暗躍する乱波(らっぱ),透波(すっぱ),突波(とっぱ)や悪党といった傭兵色の強い武士の価値感を持ち合わせていない略奪を生業とする者達も軍隊の中には混ざっていたのだ。

日本の将達はそれを前提で彼らを雇っていたが(詳しくは)、西欧人達はそういった性質を詳しく知らずに彼らを雇っていたのだろう。

日本の植民地化は困難だ・・・・

日本国内の長らく続いた戦乱でそのエネルギーは短時間で消える事は無い。戦場の急速な閉鎖により日本国内で戦場を稼ぎ場として、略奪を生業にしていた者達はそのエネルギーを海の向こうへと向けたのだ。それを利用しアジアを平らげようとしていた西欧諸国はしっぺ返しを食らう形となった。

スペイン・ポルトガル、オランダ・イギリスはアジア諸国を次々に植民地化に置き、沢山の人々を奴隷扱いしその扱いには馴れたものであったのだろうが、日本は他のアジアとはちょっと性質が違い、そう易々とコントロールできる連中ではなかったようです。それが当時、渡海した日本人傭兵の姿でした。

日本は西欧諸国にとって辺境のそまた辺境の地で、自腹で大群を率いてまで占領するに値いしないと考えていたようだが、実際の日本は高度な文化を持ち、教養も高くほかのアジア諸国とは違う印象を持ったようで、急速に日本に近づいた。

イエズス会は宗教を定着させ、それを足掛かりに日本を占領しようと考えていた。

しかし、ルイス・フロイスはイエズス会にこう報告している。「日本人は戦争がとても上手で強い。植民地化するのは困難だ。」と。

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