正子公也氏デザイン 伊達政宗。遅刻してきた天才。

遅刻してきた天才!伊達政宗。

軍の編成 組織 役職

正子公也氏デザインのフィギュアシリーズの伊達政宗さんのバージョンです。この政宗は2バージョンあるようで、特別扱いのようです。個人的には、左のバージョンの方が好きかな。

さてこの伊達政宗、特別扱いされるだけあって、人気は抜群で、まさに画になる男といったところでしょうか。上の写真では政宗のふてぶてしい感じが漂っています。

しかし、政宗が戦場で勇士を見せる期間は短いものでした。秀吉の全国平定事業と時期が被ってしまいました。「俺がもう少し、早く生まれていれば・・・」ドラマ、小説等でお決まりの政宗の台詞です。

政宗の半生も今更記事にしなくても、皆さんよくご存知でしょう。かといって何も書かないのも寂しいので、政宗の若かりし頃、まだ無名だった頃の戦いの話を書きます。

伊達政宗VS佐竹義重 人取橋の戦い

時は天正13年 1585年の11月。

伊達政宗は当主になって間もなく、畠山氏の勢力化にある二本松城を包囲した。

しかしここで反伊達連盟が決起する。佐竹義重を盟主とした連合軍が挙兵した。その数3万の大群であった。政宗はこの報告を受けると、自身の1万3千の内半分程を引きつれ、連合軍が陣取る側にある本宮城に入城した。

連合軍3万VS伊達政宗軍7千程となった。明らかに政宗がヤバイ状況であった。というより勝算がない状況だ。

この政宗のように、城攻めの途中で援軍等の増援または、敵国の同盟軍が到着するといったパターンは戦場ではよくある話だ。こうなると城攻めを行っている側が一気に不利となる。日本だと武田勝頼が城攻めの途中で信長が到着した長篠の戦いが有名だ。

国は違うが三国志の名将、曹操はこのような状況の場合、城攻めの途中で後方の敵にあたるのは愚行である、と言っている。

政宗はこの状況に陥ってしまった。しかし連合軍を無視し城攻めを続けられる状況ではないのだ。政宗は窮地に陥っていたが、絶対に引けない姿勢を内外に示し我等に大儀あり!と示さねばならなかった。政宗の父輝宗を畠山氏に殺されていているからだ。

政宗が二本松城を攻めたのは、弔い合戦であるのだ。そして政宗は家督を次いで間もない。政宗の力量を皆が見ているのだ。ここが政宗の人生の岐路であった。絶対に引けなかった。

伊達政宗19才 死線を潜り抜ける!

いよいよ、連合軍との戦闘が開始される。それは11月17日の早朝から開始された。下馬評通り数で劣る政宗が押されまくる状態で、守勢を余儀なくされた。

ここで奇跡が起こる。

連合軍側の様子がなにやらおかしいい・・・・、佐竹義政が死亡したのだ。どうやら味方の人間に殺されたようで、瞬く間にこの情報が陣営に広まり、連合軍側が浮き足だった。しかも佐竹の領国の常陸国で里見氏に何やらきな臭い動きがあるようだ、佐竹の留守を狙っている動きがあるという情報が報告されたらしいのだ。

翌日連合軍側はいなくなっていた。軍を引いてしまった。

政宗は窮地から生還した。敵軍の乱れから来る勝利ではあったが、政宗が大群を相手に一歩も引かず、しかも歳の若さもあって、伊達政宗の名は一気に株が上がったのだ。その戦功が周辺諸国に伝わった。

この時政宗は19才・・・若い。

この戦いで政宗は勢いを付け、南奥州の平定に各地を転戦するのだ。もし佐竹連合の攻撃がうまく展開し攻撃が続いていたら、政宗は無名のまま消え去っていたのかもしれません。

よく凄いスポーツ選手や起業家等々の人間に「この人は何か持ってる。」みたいな言いかたをしますが、熾烈な競争の世界を勝ち上がる人って、この「何か持ってる人。」なのでしょう。歴史物の読み物を読んでいると、こういったギリギリの中で、「なにか持ってる人」といのは、ギリギリのヤバイ状況下でも、とにかく生き延びるんですよね。しぶといんですよね。

徳川家康なんてそれの典型のような人物でしょう。とにかくしぶとい。政宗はその後も人生のピンチをいくつも体験しますが、やはりしぶとく生き延び勝ち上がっていきました。政宗もまた、「なにか持ってる人」だったのでしょう。

伊達政宗さんは現在でも大人気ですが、家康さんはなんか不人気ですよね~、なんでだろう。

そんな伊達政宗の若かりし頃の武勇伝とフィギュアの紹介でした。

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