正子公也氏デザイン 直江兼続。イケメンだったらしい。

イケメンだったらしい、直江兼続

軍の編成 組織 役職

正子公也氏デザイン 直江兼続さんです。

兼続さんは、大河ドラマでも取り上げられ知名度は高いみたいで、女性から大人気のようです。美男子だったからなのか?理由はよくわかりませんが。ブサイクぶっちぎりな管理人は嫉妬します。

しかし、やはり名将であったことには、異論を唱える人はいないでしょう。

兼続もかなり裏づけのない創作された話が多い人物です。でも話しが盛られるといことは、それだけ人気が高い証拠でもあります。その逸話の中で、兼続は幼少より聡明で美男であった為謙信より特に可愛がられたという話しがありますが、この謙信と兼続の関係を裏付ける資料は現在の所ないようです。

この兼続さんも別記事で詳しく紹介しようと思っております。今回は軽く兼続さんについて触れたいと思います。

そこで兼続さんの数々の戦の紹介ではなく、管理人が兼続が行ったとても尊敬できる話しを紹介しようと思います。

兼続の名采配!

そのお話しの前に少し逸話を紹介します。今でこそ兼続は名将として認知されていますが、兼続は関ヶ原戦の際、石田三成と通じて、家康を敵に回し上杉家を窮地に陥れた将として、上杉家での彼の評価は決していいものではありませんでした。むしろ奸臣としてその名が知られていたようです。

その後、あの上杉鷹山が兼続の政策を参考に米沢藩の改革を行ってから、兼続の評価が見直されるようになったようだ。

その兼続の政策の一部を紹介します。

関ヶ原戦後、上杉家はとにもかくにも、家康より許しを得て、上杉家存続を達成した、この際兼続は奔走している。

お家存続は成ったが、これまでの所領を没収され、出羽米沢への減移封を言い渡された。しかしこの転封処分は上杉家の規模からすると、大変厳しいものであった。およそ120万石から30万石への処分だ、当然、大変な財政難に陥るのは火を見るより明らかだった。

こうなると大量の武家奉公人を解雇しなければならない状況に陥る、現代風にいえば大リストラだ。

しかし兼続は「組織とは人が成しているものだ、ついて来たい者はついて来るがいい。」といい武家奉公人達を解雇する事はなかったそうだ。

しかし財政は火の車だ。そこで兼続は米沢の開発事業の陣頭指揮をとることになる。兼続は土地の石高を上げる為、新田開発を積極的に行なった、またこの土地の悩みの種であった、最上川の氾濫を改善するため、堤の開発を行う。

また鉱山開発も行い、見事石高を50万石程までに引き上げたのだ。兼続の開発事業の功績はその後の米沢藩の基礎を成すものであった。

兼続は軍人として優秀であったが、こうした町開発の手腕にも優れていたようです。立派な人です。

管理人がこの兼続さんを尊敬していることは、リストラを行わずに成果を上げていった所です。なかなかこのうよには行かないのが現実でしょう。これでハンサムだったらしいので、ちょっと憎たらしいぐらいです。非の打ち所がないといいますか、こういう人ってホントにいるんでね。

現在の政治家には、まずいません。

というわけで、直江兼続さんのお話しと、フィギュアの紹介でした。

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