武田勝頼は愚将なのか?武田家を滅亡させた将

信玄の代ですでに信長との開きは大きかった!

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先代が優秀でその息子の代で組織を衰退させてしまう。こういった話は世の中にはとても多い。その代名詞としてよく名が挙がるのが武田勝頼です。

しかし近年武田勝頼の研究が昔より盛んになり、見直される風潮もあります。管理人も武田勝頼びいきです。果たして勝頼は愚将だったのでしょうか?

信玄の死後10年程で武田家は滅びますが、これを10年しか持たなかったのか、それとも10年も持ったのか解釈の分かれるところだと思います。

単純に信玄と勝頼の人物像のみを比較して勝頼は愚かで信玄より劣っているとする論には少し抵抗を感じますが、信玄のイメージからくる人物像と比べると勝頼がスケールダウンして見えてしまうのは否めませんし、武田家が滅亡した時の当主が勝頼であったことは、紛れもない事実です。

勝頼という一人の人間がすべての元凶だとする論はいささか乱暴でちょっと酷な話です。

武田勝頼

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武田家滅亡の原因を探るのであれば、父の代まで遡る必要もあるし、信玄の代と勝頼の代では外の状況が違う事も考慮しなくてなりません。なにより組織の中で勝頼がどういった存在であったのかを眺める必要があります。

そこで欠かせないないのが、織田信長の存在です。武田家を滅ばしたのはこの織田信長でした。武田勝頼の代で一気にひっくり返されたイメージがありますが、

国の大きさや規模で実は父の信玄の代から開き始めていました。その鍵は組織の体質の違いからくるスピードです。とういわけで勝頼の前に父親の信玄のお話から始めます。

少々長いので数回に分けて記事にします。読んでいただけると幸いです。

株式会社武田

さて織田、武田を現在の会社に見たたて追っていきたいと思います。

信玄は元々父から引き継いだ会社を経営していました。しかしその会社はまだまだ小さく、周りにはライバル起業がうじゃうじゃいます。

これらを、併合したり、倒産に追い込み自分の会社を拡大し生き残っていく必要がりました。

この頃信玄はまだ若く父の代からの重役達からアドバイスを受けまた自らも良書を沢山読み経験を積みながら成長していく。

こうして信玄は立ち上げ当初からの優秀な人材とともに会社を大きくしていきました。それは順調に事が運んだわけではなく、紆余曲折で血を吐く思いで進んできた道でした。

しかし幾重ものピンチを社員とともに潜り抜けたことにより、信玄は社長としての風格を身にまといカリスマ化していく。社員とのチームワーク、信頼関係も強固になり、単なる主従関係とは一線を画するものとなっていった。

こうして株式会社武田は大企業へとのし上がっていった。ここに至るまでは膨大な時間が必要だったのです。大事なことなのでもう一度。そう、膨大な時間が必要だったのです。信玄には訓練と経験を積む時間があったともいえます。順序立てて大きくなっていったのです。

よく戦国時代を分かり易く甲子園に例える方法があります。地区予選を勝ち抜き、県大会を勝ち抜ぬいて戦国大名へとなっていきます。その優勝者が徳川家康なわけですが。

信玄が若かった頃、周りには全盛期の武田家クラスの大企業はまだまだ存在していなかったのです。小企業せいぜい中小企業が乱立している状態で、それらが複雑な関係で手を結んでいたり対立したりしていました。

信玄はこの中をうまく立ち回り勝ち抜いていったのです。この経験から指導者として軍人としてどうあるべきか、理想の国家像とはなんなのかを追求していけたのです。

これは信玄だけでなく部下達も同じ経験を踏んで行き、それなりの試合数こなす土壌があったのです。強くなるためには、勝ち負けの掛かった真剣勝負、試合数をこなすのが手っ取り早い。

信玄は十分すぎる試合数をこなし、負けたり勝ったりしながら生き残ってきました。そこからは、強固な人間関係も築かれます。

大企業となった株式会社武田は、社長ワンマンな会社ではなく、重役達が十二分に影響力を持つタイプの会社でした。その重役メンバーには、社長の弟信繁を副社長格にすえ、馬場、高坂、穴山、山県、内藤等々業界でその名を轟かせる優秀な重役達でした。

株式会社武田は昔ながらの正攻法で勝ち抜き強くなっいった会社と言える。その手法は泥臭く、人の能力を最大限に生かす方法で人情臭が漂うやり方だ。

そこに新人類が経営する新しいタイプの猛烈な勢いで成長する企業が現れた。株式会社織田である。

 

新しいタイプの経営者織田信長

彼の最大の特徴は新商品やシステムをうまく取り入れる嗅覚が優れているのはもちろんだが、なによりも従来の価値観や仕来りに振り回されない、彼独自の価値観だった、当時の普通の人々が葛藤する善とか悪、固定概念を意味の無いもので足かせでしかないとしていた。

これを社員達に徹底教育していた。その考え方から生み出される事は会社を飛躍させる為の徹底した合理化とスピードであった。

この株式会社織田と株式会社武田を比較してみよう。

株式会社武田は、重役達を始め社員達は自分達の軍隊を持ち合わせていた。これは家臣達が自分の土地を所有していて、ある程度の自治権をもっいて武田家に付き従う形をとっていました。

現在の株式会社で例えると、会社の株を社員達も保有している状態です。

方や株式会社織田は、初期の頃からではありませんが、株は社長の信長がほぼ一人でもっている状態でした。

そのため家臣に与えられている軍隊や領土もすべて社長信長から借り受けてる状態といえます。

この二つの会社の違いは、株主総会で経営状態が悪いと社長を交代させろ!みたいな事が起こりますが、信玄は武田家の社長でありながらも、会社の株を他の人間も所有しているので、いつでも株主からクーデーターを起される可能性を秘めているといえます。

しかし信長は会社の株を一人で持っている状態なので信玄に比べると会社での地位は絶対的な独裁体制を敷いていたといえます。

これはどちらがいいかというとわかりません。双方にメリットデメリットがあるでしょう。

しかし、当時の戦国大名の殆どは、株式会社武田と同じ構造だったのです。

信長は、組織を独裁的な体質に変えていきました。

戦国大名の一般的なイメージ詳しくは⇒農民とは奴隷なのか?2で)はむしろ信長のような支配構造をイメージされるかもしれませんが、株式会社武田の方が当時のスタンダードだったのです。

さてこの違いから出てくる差は何でしょうか?スピードなんですね。

ここでいうスピードとは会社の規模が大きくなっていくスピードです。

信玄の会社では、なにを決めるにしても、家臣達の同意、過半数の賛同がなければ事を起すことが出来ませんでした。

一方信長の会社はすべて信長の意思で組織が動きます。これが大きな違いです。

しかしどっちがいいかのか悪いかのか誰にも分かりません。

信玄の会社であれば、いくつもの案がでてきてバリエーション豊かです。リスクを検討する際にも多面的に物事を捉えられます。しかし、案が多いが為に落とし所の吟味に時間がかかりスピードが遅くなる。言い換えれば慎重だ。

信長の会社であれば、信長が考え言葉を発した瞬間に組織が動き出し、スピードは抜群です。しかしその判断が正しくなければ組織ごと奈落の底です。

なので、ここではどちらが正しいのかではなく、どういう結果を招こうとも、スピードといったところにフォーカスすると、株式会社織田の方が合理的と言えます。

そしてもうひとつ、軍隊の違いです。いまさら記事にすことでもなく皆さんご存知かと思いますが、信長は1年中戦える兵隊の専門職をつくり、農民と兵隊を分離しました。

信玄の方は相変わらず従来通り農民と兵隊は兼業で戦争が出来る期間は限られます。

これもスピードにフォーカスすると信長の方が圧倒的に合理的で勝ります。

しかし信長は信玄との武力衝突をとても嫌い、これでもかとばかりに信玄に対して腰を低くして接しています。信長がどんどん近代的な軍事改革を行っていっても、武田軍の軍団が怖かったわけです。信長の軍がいかに工夫しようとも、根底の強さといいますか、経験に裏打ちされた底力といいますか、何か不気味な強さみたいなものを感じていたのでしょう。これが武田甲州軍団強しといわれる所以なのでしょうか。

軍の強さの比較はとりあえず置いといて、やはり合理性とスピードといった点では信長が勝ります。この差は大きい、1年中どこにでも出兵できるからだ。版図の拡大に時を選ばない。

両者の企業には、この決定的なスピードの違いがありました。

信長は己の裁量で会社をいつでも思い通りに動かしていた。

信玄は常に大多数の意見の妥当な落とし所を探り、なるべく大多数が納得しうる方針を時間をかけて決定していた。

ここではどちらが強いかという話ではなく、あくまで国が大きくなるスピードを比較しています。

 

信玄の晩年、信長とはこれだけの開きがあった

時は流れ、信玄は西上作戦(詳しくは⇒天下人家康がカルチャーショックを受けた、三方ヶ原の戦いで)に乗り出します。

この時の信長と信玄の石高と動員できる兵隊の数だが、(慶長3年の検地高を基準に250人で1万石と計算)

信長が240万石、動員可能な数6万人。

信玄が122万石、動員可能な数3万5000人であった。

信玄が在世中であってもすでにこれだけの開きが両者にはあったのだ。この頃にはすでに武田勝頼も一軍の将として信玄の下で立派に活躍していた。

国家を大きくしていくという観点からの結論から言うと、信長のほうが大きい結果をだしていることがわかる。しかも信玄より短い時間でだ。

もちろん要因はここに書いた記事の理由以外にも沢山あるが、武田家が遅れをとっていたことは、否めない。

従来の正攻法で確実に時間を掛け事を進めていく武田信玄。今まではそれで成功してきた。実際に信玄が作り上げた軍団は強い。その一言に尽きる。その方法を信じて疑わない創業以来の重臣達。

それとは異なった方法で従来説を否定し新しい方法で飛躍していく織田信長。

父信玄が行っている豊国強兵は着実で堅実、強固である。勝頼は頭では理解している。

しかし勝頼は年代としては信長に近い。勝頼は信長との国力が開いていく事にジレンマを感じていたに違いないと思われる。それと同時に株式会社武田の運営方法にも疑問を持ち、信玄を始め重臣達との考え方のギャップが募っていったのではないでしょうか。反発、反抗を秘めた複雑な感情からくる、新しいものへの憧れと古い仕来りの窮屈さと不便さから自らが自由に采配してみたいという想い。それをやってのけている信長への憧れと嫉妬。

また父であり師でもある武田信玄の存在は偉大が故に生涯勝頼を苦しめる事になる。

こうして勝頼は徐々に会社の中で孤立していくのである。

今回は組織の体質にフォーカスし武田家滅亡の前兆を記事にしてみました。

次回につづく。

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