武田勝頼は愚将なのか?武田家を滅亡させた将2

勝頼の産まれの不運、信玄はそれを払拭してやれなかった

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前回の武田勝頼は愚将なのか?武田家を滅亡させた将では、信玄の代ですでに織田家との開きは大きく、この2つの家の体質の違いに触れました。今回は勝頼がどういった経緯で武田家当主となっていったのか、追っていこうと思います。

武田勝頼

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勝頼は諏訪頼重(すわよりしげ)の娘、諏訪御寮人(すわごりょうにん)の子で。信玄が諏訪氏を武力制圧した時、諏訪御寮人を側室に娶った。

しかし信玄のこの行為は家臣達から大変に不吉で危険だとし、猛反対にあったそうだ。そん中で勝頼が産まれます。

勝頼は諏訪を完全に武田方の傘下に組み込み安定させる為の橋渡し的な存在だった。その為勝頼は程なくして信玄より、高遠城城主に任じられる。

この時、諏訪四郎勝頼と名乗っている。これは諏訪の跡取りであるという意味合いです。

勝頼はこの時点で家臣団達から、猜疑を抱かれていた節があります。勝頼は諏訪氏再興を目論んでいるのではないかと。家臣団達からすると勝頼は諏訪の人間、武田の中枢の人間ではなく、部外者のイメージがずっと付きまとうのだ。

そんな中、武田家の跡継ぎとされていた義信が謀反を企てとして、幽閉され自刃している。次男の信親は目が不自由、三男信之は幼少で死亡。そこで四男である勝頼に武田家の跡取りの権利が回ってきたのだ。

こして勝頼は武田勝頼と名を改め、1571年に武田軍の拠点である躑躅ヶ館に入城するのです。高遠城主には、叔父にあたる信廉が入城する。

 

信玄は勝頼に社長の椅子を中途半端な形で譲る

信玄は勝頼を愛していたのでしょう、そればかりでなく将として高く買っていたものと思われます。至らない部分を叱りながらも自分の跡取りとして接していたようです。

しかし信玄は家臣たちが勝頼をどう見ているのかも重々承知していました。信玄は自分が生きている間に勝頼を時期社長であると、部下達を説得仕切れなかったのだ。周りに納得してもらうには、それなりに時間も必要だし、勝頼も主としての風格を身にまとうにも時間が必要だと考えて長期的に徐所にスライドして行こうと考えていたのかもしれません。

しかし信玄が考えているよりも早く自分の死期が訪れた。

元亀3年(1572年)武田軍は反信長連合に呼応する形で、遠江、三河侵攻(詳しくは⇒天下人家康がカルチャーショックを受けた、三方ヶ原の戦いで)を開始します。

勝頼はこの戦いに一軍の将として従軍しています。因みにこの戦いで、遠江の重要拠点である二俣城攻めに際し勝頼を総大将に任じています。なにか信玄の親御心を感じます。

しかし、三方ヶ原戦後、信玄は病状が酷くなり武田軍は甲斐へ帰還を始めます。

その途中信玄は元亀4年(1573年)4月12日に息を引き取ります。勝頼が躑躅ヶ館に移転してから、わずか2年程の出来事でした。

記録上では信玄の死は隠され、信玄の隠居により勝頼が家督を継ぐ形を取りました。

こうして武田家20代当主武田勝頼となるのです。しかしこの時期での信玄の死は色々な意味で勝頼に難題を被せる形となったのです。外にも内にも・・・・

次回につづく
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