斬首そして晒し首 獄門
首実検が終わると、その首級の扱い方は勝者側の主観に委ねられる。
ある程度の礼儀や人としての良心、主将としての器量が計られる場面ではあるが、戦争に至るまでの経緯や勝ちを獲得するまでの犠牲や出費等で相手に対する憎しみは計り知れない。
首級は名のある将である場合、稀に敵国に送り返したりもするが、その殆どは捨てられたり、晒し首にされていた。勝者側の主観論で敗者の首級は大逆罪とし晒される。
それを獄門と呼んでいた。
もともと、京都の牢獄の門の棟から藤原信西の首を懸け晒されていた事から獄門と言われるようになったらしい。後世では3本足の台の上に首を乗せ晒していた。この台を獄門台という。
晒し首にする以外にも、生きたまま捕虜になれば臣従させる為説得を試みたり、切腹を命じる事もあるがこれらは稀で、その殆どは打ち首、斬首刑であったようだ。
この他にも、火焙りにしたり、車裂(くるまざき)、磔等、残虐な方法はこれでもかと言わんばかりに沢山ある。その沢山ある中の一つのエピソードを紹介おきます。
<源頼義が行った斬首のお話>
源頼義(みなもとのよりよし)が東北地方の豪族である藤原経清(つねきよ)を捕らえ、処刑するに至った。頼義はこの藤原経清に随分と苦戦させられ、ひどく根に持っていたらしく、首を落とす際、刀の刃がボロボロになっている切れ味の悪い刀で、何度も何度も経清の首に刀を振り下ろし、苦しませながら首を落としたとする、話が残っている。
獄門は見せしめ、勝者による畏怖の宣伝。
獄門に関しては明治時代の初期まで行われていた。
こういった敗者の扱いはただ怒りや憎しによる感情的なことで行われる他にも、その多くは周りに与える影響力や効果を巧みに利用する目的で使われていた。これもひとつお話を乗っけておきます。
<武田信玄が行っ怖い晒し首の話>
信玄は志賀城を包囲。城主は大井貞清(おおいさだきよ)貞清は関東管領上杉憲正(うえすぎのりまさ)に救援を求め上野国より援軍が出された。これに対し信玄は志賀城を包囲している軍から別働隊を編成し、軍を急行させ、上杉憲正の援軍を粉砕した。この時武田軍の挙げた首級はなんと3000にも及んだ。大井貞清は援軍が蹴散らされことをまだ知らない、援軍が来れば信玄に反撃できると心待ちにしていた。が、ある夜が明けると城下には首を槍の先に指してある状態で永遠と並べ晒されていた。その首はもちろん援軍に来るはずだった者達の首だ。篭城している側からすれば、かなり精神的にまいってしまう仕打ちだ。この頃の信玄はかなり厳しい人物に写る。この後信玄の内でどのような心境変化があったかは分からないが、以後信玄はこのような事をしていない。
獄門は人の恐怖心を煽るには最適な方法だったようだ。
今現在にも残る不気味な地名やあそこに行ってはいけません等こわ~い話の類は、こういった昔の悪しき風習から伝わっているのです。
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