未だに根強い勘助架空説。
山本勘助さん。ドラマ・小説・漫画・ゲームで引っ張りだこです。管理人もこの人物大好きです。
武田家の版図拡大に大きな貢献をし信玄のブレーン。その容貌もまた勘助の魅力を際立たせる。身長は低くあざ黒く、手の指も揃わず、右足は不自由、右目は潰れて失明した醜男であったという。
ここまで人物像がはっきりしているのに、この方は架空の人物臭がプンプンする謎の多い人物だ。まあそれが故に魅力的なのかもしれない。
扱いとしては義経と行動を共にした弁慶だとか最近だと聖徳太子も架空の人物だったのでは?と論議されていますが、山本勘助にこういったイメージを持っている方も多いのではないでしょうか?
山本勘助は甲陽軍鑑以外の書物には登場しないため、古くから架空説がささやかれていたのだ。たどるとそれは江戸時代まで遡ります。
勘助架空説、それは江戸時代から
甲陽軍鑑は(詳しくは⇒)江戸時代に武家の教育書として広く採用されベストセラーであったが、これを批判し信憑性にかけるとする書も多く発表された。その一つが元禄年間に書かれた「武功雑記」で作者は松浦鎮信(まつらしげのぶ)という人物だ。
この武功雑記のなかで、「山本勘助の子関山僧なる人物が甲陽軍鑑の作者を高坂弾正(武田家家臣)と偽り、自分で父の勘助をあたかも大活躍したかのように誇張して表現した。実際は山県 昌景(武田家家臣)の臣であった。」といった感じで勘助を表記している。
甲陽軍鑑自体が信憑性が怪しい書物だと断じていて、江戸時代からこういった流れがありました。
やがて明治に入り、東京帝国大学教授、田中義成氏が武功雑記の松浦鎮信説を大筋を認めるとする論文を発表し江戸時代につづられた創作であるとし、その後、甲陽軍鑑もろとも山本勘助は怪しい存在であるとした見方が強まり、それが飛躍して勘助は実在しない架空の人物であったとする説が現在でも根強く浸透しているようです。
こういった高学歴の権威のある人が言った事が正しいであろうと信じ込んでしまうのは管理人も含め日本人の悪いところなのかもしれません。
しかし甲陽軍鑑や山本勘助に関する研究は各方面からされているようで、近年になり勘助が実在した事を裏付ける書状等が出始めきているようです。
架空説を覆し、浮かび上がる山本勘助。
昭和43年に北海道釧路市の市川家から勘助の実在を裏付ける重要な資料が発見された。その書状には、「かくがくしかじか・・・・・詳しくは使いの管助よりお聞き下さい。」といった内容の書状で山本管助の名が記されている。
またもっと近年の2008年には、群馬県の真下家所蔵文書の調査をしていたところ、武田家の資料が見つかり、山本管助宛の書状3通が発見されました。
因みに上に書いた関山僧なる人物は存在しないようだ。田中氏は論文の中で勘助を軍師と表記している文があるが甲陽軍鑑の中に勘助を軍師等と一言も表記していない。山県昌景(武田家家臣)の一兵卒とする論も怪しいし根拠が薄い伝説の類だと思われます。
こうして長らく田中説が史学界では支持されていたよですが、近年その見方が大分変わってきたようです。
甲陽軍鑑自体も国語学の立場からみて戦国末期に書かれた記録であることが証明されているようで、甲陽軍鑑の再評価がされている。
さて山本勘助さんの活躍ぶりは、ドラマや小説等で数々語られ皆さんもよくご存知だと思います。これらは基本的には甲陽軍鑑に書かれている勘助を抜粋して作られているようですが、多少の誇張や大げさな表現があったとしてもまんざら嘘ともいえないようです。
もう少し甲陽軍鑑に描かれる勘助さんの像に迫っていくと、勘助は足軽隊将と表記されていて、信玄が彼を採用した大きな理由は、彼の土木建築知識の深さであった。
甲州軍団のなかで彼は、建築士として雇われたようです。
武田軍は正に覇業の真っ只中で領国を拡大していく中で城造りや砦や要塞などの工事が頻繁に行われることは必然で、勘助のような優秀な建築士は是非とも欲しい人材だったのだ。
そこで信玄はその技術者を探す為、武田家との繋がりが深い葛山氏を辿りその被官である吉野家に行き着く。ここで山本勘助の名が上がってくるのです。吉野氏は小山田信綱(武田家家臣)と婚姻関係で繋がっており、家系的にも申し分がないため、勘助は信玄より重用されることになります。
その後勘助は、高遠城、小諸城、海津城等等、武田軍の重要な戦略拠点の改築や新築の指揮をまかせられることになり、大きな貢献をしているのだ。
また勘助が信玄に雇われ時はかなりおっさんになってからで、それまで各地を放浪し学識を深め世を見聞していたようです。信玄のほうが年下で勘助から聞かされる話は信玄にとってとても勉強になることばかり、その為信玄は何かに付けては勘助を呼びつけ相談していたようです。
甲陽軍鑑の中に、信玄自慢の臣である馬場信春という猛者がいました。馬場は勘助より築城技術を教えてもらっていたという話しが残っている。
これまた信玄自慢の将である名将真田幸隆も勘助とは気が合い良き話し相手だったようです。
こうしてみると山本勘助を架空の人物とすることはいささか強引で乱暴な見方であるような気がします。しかし勘助には謎の部分が多い事も否めません。これだけ武田軍の中で重要な人物であったにも関わらず甲陽軍鑑以外の資料に登場しないのも、これまた不思議な話しです。
今後この分野での研究が楽しみです。勘助の架空説を吹き飛ばす決定的な物が発見される事を期待している次第であります。
スポンサーリンク