百姓、農民が戦争被害を避けるために取ったしたたかな方法(半手、半納、風見鶏偏)

どっちつかずの方法、半手、半納

月 桜

よく歴史物の小説やドラマ等で、○○村に火を放ち退却!といったシーンを見かけたことありませんか?自勢力化の村や集落をわざわざ燃やしてしまうのです。

管理人が製作したもので恐縮なのですが、三方ヶ原の戦(詳しくは)いの動画内でも、徳川方が遠江の見附集落に火を放ち退却といったシーンが出てきます。これは、武田方が見府周辺に迫ってきた時、徳川方はその周辺に偵察隊を出していました。当時見附は家康の管轄する領土の一部でした。わざわざそこを燃やしてしまうわけです。どうして?と疑問に思う方もおられると思います。

三方ヶ原の戦い

これはですね、敵方に集落を占領されてしまうと、略奪が始まり、年貢の徴税権をも奪われてしまうからなんです。

敵方を潤わしてしまうからなんですね。敵方に米、麦、馬、人等々、戦力になりうるものを提供してしまうなら、燃やしてしまえという事なんです。焼け野原となった集落からは何も取れなくなります。乱世の世にあっては、こういったケースが往々に行われていたようです。

ちなみにこの遠江の見附という集落は現在でいうと、静岡県の磐田市辺りにありました。この見附町は、「家康様が大事で半手にはしなかった」とあります。この半手とはなんでしょうか。

戦国時代では見附のケースのように、敵と見方の間に挟まれ常にどちらに組するのかといった状況に追い込まれる集落が沢山ありました。

戦国時代では、よく二重成し(ふたえなし)といって敵味方に挟まれ、両勢力から年貢を二重にとられるケースが多発していたようだ。農村や集落からしたらたまってものではない。

こうした二重成しを避けるためにとられた方法が半手という方法だ。これは両勢力に半分づつ年貢を納める方法で、両勢力からの乱取りを避けていたのだ。この半手の方法は当時の大名達にある程度許容されていたようで、その判断は各集落に委ねられていたようだ。

上に書いた見附は武田方に半手を行わなかった為、常に武田方の夜討や乱取りに苦しめられたようだ。

集落のしたたかな処世術

この半手は中国地方では半納といったようで、秀吉が毛利勢力に侵攻した際にも毛利と秀吉の間に挟まれる集落があった。

秀吉は備中にある宮内村に対し「敵軍はこの村を足場にゲリラ戦を仕掛けてくる。よって日暮れ以降は、村から人の出入りを禁止する。もし勝手に出入りして監視兵に討ち取られてもそれは村の責任だ。いかに半納の村でも、敵兵が村人に紛れて出没するのを見逃すことはできない。もし敵の出入りが事実でなければ、出頭して申し開きせよ。」-雑兵達の戦場より引用ー

とある。この宮内村も半納の手段を取り、毛利方と秀吉方とのどっちつかずの風見鶏を決め込んでいたいた様子が伺える。

乱世の世では、常に勢力バランスが右往左往するので、敵と味方の間に挟まれる地域が必ずでてくる。

各勢力は集落に侵入を始めるとただちに年貢の押さえに入るので、集落は元主の勢力、敵方の勢力の両方に年貢わ払う二重成しの状態に陥る、又どっちかに肩入れしすぎるとそれはそれで怖い。何時その勢力バランスがひっくり返るか分からない為、国境付近の集落では、こうした半手、半納といった方法をとったのだ。

農民植えても、うえても

ここでおもしろいのが、どの勢力もこの半手、半納を許容していることだ。上の秀吉の例でも集落が半手の方法をとっていることを前提に村に通達をしている。

これは秀吉が集落にある程度気を使っている事が分かるし、当時の戦国時代ではこうした集落のどっちつかず状態が常識であったようなのだ。つまり集落に選択権を与えていて、その判断は集落に任されていた。力任せに勢力化に組み込んでしまえば、といった単純なことでは従わせることが難しかったとの見方もできます。

こうした例を見てみると、百姓、農民が権力者側からいいよにされてしまうといったイメージが多少覆されますよね。

集落は戦争が始まれば瞬く間に略奪の憂き目にあうのだが、こうした選択権を持っている面もあったのです。略奪が目的の侵攻であれば、このような半手、半納のような方法を取るのは難しいでしょうが、当時の戦争が全て略奪が目的ではなく、敵国の占領が目的でもあります。そうなれば、なるべく被害が少ない状態で土地を手にいれたいと考えるでしょうから、こうした方法が取られていた事も自然な流れだったのでしょう。

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