海で陸路のごとく采配する船奉行
敵地に進入するには、陸路だけでなく、渡海、渡河が必要な場合が多々ある。これを軍船と位置付ける記載は、吾妻鏡や平家物語にも記載が見られ、1185年頃から見られる。
当然この軍艦を取りまとめる長が必要になってきて、これを後世で船奉行と呼んでいた。この呼び名も家ごとにまちまちで、船大将、船手大将、海賊衆等とも呼ばれた。
軍艦としての役割を果たす他、人力で物資の輸送を行うよりも大量に運べるので、輸送船としてもおおいに利用されていたようです。
こういった軍船は物資輸送以外にも、人員を輸送する手段としても有効で、通常、陸路より進入が難しい地点に人を送り込める等のメリットもある。海上で戦闘になることも多々あるので、船を動かすこぎ手、水夫(かこ)のほか、常時戦闘員も乗船しており、弓、鉄砲、大筒、熊手、等で戦う使用になっていた。海上でほぼ独占状態を維持しているエリアではもっぱら、輸送船や交易に利用されていた。
内陸に位置する、各勢力はこういった海上エリアを独占するメリットの大きさから、海に面するエリアへ目を向ける勢力も沢山あり、また海上での戦闘も激化していくのです。
こうして、室町後期になってくると、その造船技術は急激に発展していくことになります。代表的な船の種類として、安宅船(あたけぶね)、関船(せきぶね)、小早(こはや)、等がある。安宅船は巨大で大量の人員を投入でき、鉄板で装甲しその鉄板に鉄砲で射撃するための穴が開いており、360度どこにでも射撃できる構造になっいる。また正面には、砲撃用の大筒が装備されていた。これを縮小したスピードの速い関船、さらに小さく早い小早があり、現代風にいえば、戦艦、巡洋艦、駆逐艦といったころだ。
このように、海上戦も陸戦同様、戦い自体が高度化していき、その指揮官も海上戦や、船、海、河の性質をよく理解した、すぐれた指揮官を採用する必要がありました、これら船団を取り仕切るのが、船奉行でした。