評価が紆余曲折する書。甲陽軍鑑

甲州軍団の強さの秘訣が記された書 甲陽軍鑑

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甲陽軍鑑の書。この書の評価は長年紆余曲折を経て現在でも、親しまれている書ではあるが、歴史研究家には、この書は読み物として読むもので、史学として扱うのは危険だとする辛い見方をしている方も多いようです。

甲陽軍鑑

ところで甲陽軍鑑って何だよ?って人のため簡単な説明しておくと、武田信玄から勝頼2代に渡っての実績や作法、軍法、合戦を記した書で、計23冊で構成された書であります。

この書が書かれ概要が出来上がったのは、長篠の戦いで武田軍が敗戦し多くの戦死者を出した戦いの、直前の頃だとされていて、しかも執筆にあったのが信玄の重臣、高坂昌信がその大部分を書きその後、甥である春日惣次郎(かすがそうじろう)が引き継いだとする説が有力だそうです。

さらにその後、武田軍の足軽大将、小幡昌盛の息子景憲が書を入手し手を加え完成したとされていて、ちょっと複雑な過程を経ています。

この書は大変優れた書であるとして、徳川家康は「武田仕立(じた)て」として、民政や軍法をこの書を模範としている。その後さらに幕府では甲陽軍鑑を戦術書の教科書として採用したのだ。甲陽軍艦は江戸時代に大ベストセラーとなり、武家の人間であれば読んで然るべき書であると位置づけされた程のメジャーな書であったようです。

これだけ目立てば当然これを批判する書物が登場する。特に元禄年間に松浦鎮信(まつらしげのぶ)が編集した武功雑記で甲陽軍鑑を徹底的に批判している。これら甲陽軍艦を批判する書では、おおかた、年号が合わない等疑わしい所が目立ち、事実とは違うではないか!といった内容だった。

日本は明治に入り、その頃史学界をリードしていた、田中義成氏が甲陽軍艦には出来事や年号の誤りが多い事を発表し、甲陽軍艦は史学書としての価値は低いとし読みものとしての書だと指摘した。ここから現在に至るまで甲陽軍艦は信憑性に懸けるため、学術書としてではなく読み物として扱われてきたようです。

居なかった事にされちゃった山本勘助さん。

山本勘助さん。この方有名な方ですが、武田軍を描く小説やドラマで必ず信玄の参謀役として登場します。しかし長らくこの人物は架空説もしくは、山県昌景の一兵卒に過ぎない存在だっとする説が有力でした。こうした流れは上に書いた明治時代に甲陽軍艦について学術論文で発表された事が尾を引いていました。山本勘助だけでなく甲陽軍艦自体が学術書としては価値が低く敬遠され、それがゆるぎないなものとされていました。

余談でありますが、よく軍師という呼び方があります。これは江戸時代に山本勘助への愛着と尊敬を込めた呼び方で、軍鑑には一言も軍師などという言葉はでてきません。山本勘助は武田軍の一員として、足軽隊将と表現されています。

この勘助さんの架空説を覆す資料が、昭和43年に北海道釧路市の市川家から発見され、山本勘助は実在したぞ!と騒ぎになったようですが、それでも史学の流れは田中説を支持しているようです。(山本勘助に関して詳しくは)

一度「これが事実です。」と公にしてしまうと、なかなか覆すにはいかない大人の事情がいろいろあるのでしょう・・・・・

近年、国語学者である酒井憲二氏が、国語学的な目線から甲陽軍艦を研究していて、記されている語法から、どうも江戸時代以前に用いられる語法が使用されている為、甲陽軍艦は戦国時代末期に書かれた物で史学としての低い評価を再検討する必要があるとしている。これは、景憲が江戸時代に手を加え彼の主観が多分に含まれている創作で当てにならないとする、見方を検討すべきだということです。

甲陽軍艦は未だ歴史研究家が一生懸命研究を進めてくれているようで、今後が非常に楽しみな分野であります。

高坂弾正の叫び!それが甲陽軍鑑

この書が学術書として信憑性があるのかどうかは別として、この書の原型を書いた作者が本当に高坂昌信であるのであれば、非常に感慨深い書です。高坂は信玄と苦楽を共にし、信玄亡き後も武田家の中で生き続けました。しかし高坂が目にしていた武田家はもはや信玄が居た頃の姿ではなかった。

次代当主、勝頼に疎まれ、危うい舵取りを切ない気持ちで眺めながらもそれに仕え、武田家を憂い戒めようとしている高坂の叫びが、この甲陽軍艦なのだと思います。

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