軍による略奪行為 その餌食となる農民

武士はロマンスで戦っているのではない。

桜 月

植えても、植えても・・・の記事で少し触れましたが、戦場での一番の報酬は軍による略奪行為でした。特に下級武士、足軽、陣夫にとってはここぞとばかりに略奪を徹底し、そのことに夢中になります。

これは戦後に限らず、戦いの駆け引きにも利用されていて、敵方の農地を破壊することで、国自体を疲弊させるのに有効な為だ。

こうした土地破壊工作も当時は立派な軍略等として扱われていたのです。

日本史において戦国時代は非常に人気のある時代でテレビドラマ、映画、小説やゲームの題材にされやすい。しかしこれらの殆どは武士の華麗な面やロマンを中心に描かれる事が殆どだ。

もちろんこれらはエンターテイメントとして十分に楽しめる物が多いし管理人も大好きです。

こういったエンターテイメントにあまり取り上げられないのが、農民達だ。まるで武士だけが日本を駆け巡って、夢、ロマン、人情を語っている少々甘ったるい物が多いのも事実だ。

そこで、今回武士達のロマンスではない現実的な部分を戦国時代を例にとってご紹介します。テーマは略奪です。

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終わりのないラットレース。略奪を繰り返すその理由とは。

戦国時代は説明するまでも無く全国各地で日常茶飯事に戦争が行われていました。しかしおそらく多くの人が敵国を支配地に置く事を目的にした戦争が繰り返されていたと考えている方が多いと思います。

もちろんこれは間違いではありません、国取りの為武士達は局地戦を繰り返していました。

ところが、この国取り以外の側面があるのです。それが軍による略奪行為です。

軍による略奪は農地の破壊や摂取の他にも、捕虜を確保しての人身売買や労働者として自国に強制連行したり、軍にそのまま編入したりします。

また占領地に住む人々の財産を根こそぎ持って帰ります。これらの行為により勝者側の国は潤うのです。

つまり占領が目的ではなく、敵国の資源、財産、人員をそのまま自国に持ち帰り、自国の人々を食べさせる為に行われていた側面があるのです。(ここら辺の事は、農民とは奴隷なのか?2の記事で)

非常に残酷な話ではあるが、この略奪は当時当たり前に行われていて、戦争の数だけ略奪も存在していた。

人気の高い武田信玄。しかしこの武田信玄も容赦なく略奪行為を行っていた。特に信玄がまだ信濃侵攻戦を展開している頃は敵国に対して苛烈な非常さを見せている。

その信濃佐久郡の志賀城を落とした際、武田軍はその周辺の人々を根こそぎ捕虜にして、戦後その親類に銭2貫文~10貫文(本当におおよそで1貫文10~15万円位。戦国時代の書籍の多くに1貫文15万円としているものが多い。)売り渡した記録が残っている。

これまた天文17年の信濃佐久郡侵攻戦で武田方は5000の首級を上げた記録が残っていて、この時も周辺の住民を根こそぎ甲斐に連行している。しかもこの捕虜を取った事を「手柄」として表記しているのだ。

戦国武将

今度はそのライバルである上杉謙信軍の話。謙信は信玄に比べ、正義、仁義を重んじ不正義は俺が正してやる的なイメージを持たれているのではないでしょうか。しかし上杉謙信とて信玄を始め他の戦国大名と異差はない。

謙信が常陸の小田城を落とした際も捕虜を取っている。この捕虜も売買された記録が残っていて、この捕虜の獲得と売買を許可したのが他の誰でもない上杉謙信なのだ。

こういった例を見て分かる通りこれら略奪行為は平然と行われしかも軍の主将公認の元で行われていたのだ。略奪により自国は潤うことになり、国内の不満は解消されるのだ。

黒田基樹氏の研究によると、日本は慢性的な飢饉状態でそれは江戸時代になってからも続いていたそうだ。国を統べる戦国大名は国内の飢えを解消する為に他国に侵略し略奪を繰り返していたのだという。

戦国大名は、何も国取りだけを目的としていただけではなく、むしろ国内の人々その大多数を占める農民を食わせる為に戦いを続けるしかなかったのだ。彼ら農民が不満を持ち、それを抑えられなくなると国自体が危機に陥るからだ。

戦後勝者側に組している農民達は一時的にではあるが潤う。しかしたちまち敗者側に組すれば、地獄に身をおく事になる。それは奴隷か死であった。

乱世の世にあって略奪とは、国が生き残る為の手段であったのだ。

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農民
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