農民とは奴隷のごとき扱いだったのか?
農民は果たして、奴隷のごとき存在なのだろうか?農民のイメージとして、お上に苛められ土下座してなにかを懇願してるようなイメージがりませんか?たしかにヒエラルキーでは下層に位置し、摂取される立場ではあるのだが。はたしてこのイメージは正しいのでしょうか?
農民とは、田畑を耕し収穫物を生産し、その一部を税金としてお上に納め生活をしていました。国家もこの土地からの収益に依存しているのです。国家の基盤はすべて、この土地に起因するのです。
その土地を潤わせるのが農民です。ここからわかるように、お上がどんなに、独裁的、神格化、畏怖の対象として、プロパガンダしようとも、彼ら農民を無視した行いは困難なのである。 少し古い時代は遡り、土地と人との関係を見ていきましょう。
律令制の導入
日本は701年に大宝律令という制度を導入しました。 日本は近代化を推し進めるために、皇族や貴族が他国へ留学し一生懸命勉強し、国家運営のノウハウを持ち帰りそれをフォーマットに日本風の制度にアレンジし律令制を制定しました。
律令制とは土地、国民を国家のものとする「公地、公民」という姿勢で、農民は国から口分田と呼ばれる土地を与えられ、そこを耕作し収穫物を国に収める、これを班田収受の法と呼ぶ。 律令制の主な目的は、
1 豪族から私有地を取り上げる。
2 中央が一括で地方統治。
3 租税制度を再編成、全国からの収益を確実なものとする。
事を目的としていた。しかしこの制度は人口増加にともない、国が支給する口分田が不足し制度が波状するのである。
そこで、722年に100万町歩の開墾計画という政策を打ち立てます。
しかしこの制度は、すでに波状していた。 100万町歩とは土地の面積のことなのだが、この目標とする数字程日本の面積がないのである。
しかも、前回の政策同様、収穫物は国に没収されるので、耕作する農民には、なんのメリットもないのである。農民からすれば大変ばかばかしいので、全国的な農民のストライキ状態に陥るのです。
これではいかん!というと事で国は、開墾者から数えて3代つまり孫の代まで私有地化しても良し、財産家してもいいですよ、という制度に変更したました。これを三世一身の法という。この制度は723年に制定される。
結局この制度も3代目には没収されてしまうので、やっぱり農民からすればかばかしく、一生懸命耕作に励んでも、いずれ手放さなければならないので、まったくモチベーションがあがりません。3代目で返還する頃には、土地は荒廃している状態でした。
墾田永年私財法
こうして遂に国は、土地の私有化を認める方向に転換します。 これが教科書でよく見かける墾田永年私財法です。この制度は743年に制定されました。
国は、土地を差し上げますので、その収穫の一部を税金として納めて下さい。となっていったのです。これまでの徹底的な管理と強制では人が動かず、返って生産性が落ちてしまう事に国が気が付いたのでしょう。制度を試運転しながら、試行錯誤している様子が伺えます。
ここまでの流れを見てみると、国家運営のための政策が、権力者側の一方的なリードだけではうまく行っていない事がみてとれます。 律令制を奴隷制や独裁制による摂取の仕組との捉え方もされているが、日本がこういった制度を運用するのは初めてで、墾田永年私財法はこれまで国が試行錯誤し作り上げた制度としてみる方がクリアーに当時を眺めることができる気がします。
ここでは詳しく触れないが、徴兵の制度の内容なんかを見ると、一般人の負担を軽くしようという試みが含まれています。 よく墾田永年私財法が律令制を崩壊させた。といわれているが、律令制の試行錯誤の上での完成形が墾田永年私財法ともみてとれます。判断の難しいところです。
時の権力者といえども、農民達のリアクションを無視することができないのです。彼ら農民の仕事量=国家の予算になるからです。彼らにそっぽを向かれては、お上は立ち行かなくなるのです。一見絶対的な身分制度に守られているようにみえるが、彼ら農民のある程度の利なくして、権力は維持できないのだ。
こうして国は土地の私有化を許可しました。この私有地を荘園と呼ぶ。ここから、武士、領主、大名等が登場してくるのだが、次回は農民と領主、大名の関係を見て生きたいと思います。
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