退却は進むより難しい。
形勢不利となり、軍が崩れ始めると、退却を余技なくされる。こうなってしまうと、皆逃げる事で頭が一杯になり、軍の様相を成さなくなる。どんな名将でも混乱に近い集団を立て直すのは至難であると言われている。勝っている側は、ここぞとばかりに襲い掛かり、雪崩のような勢いで追ってくる。
こうなる前に戦況不利となった場合登場するのが、殿(しんがり)部隊だ。殿が追ってくる敵を食い止める役を一手に引き受け自らも引きながら戦闘をする。戦場でよく言われるのが、進むより退くほうが困難であると、いろいろな書籍や昔の人の言葉として残っています。
この殿はもとより死を前提とした、兵法とは言えない無茶な行為で、突撃をするよりも勇気がいる役割です。他の部隊が戦場を離脱するまで、留まり孤軍奮闘しなければならず、しかも少数の部隊で行うのが一般的だったようです。
しかし、本体を逃がし、自らも生還すれば、この上無い功績として評価されたそうです。
こういった自らが犠牲となり、味方を逃がす行為は、美談になりやすく物語りのネタに使われやすいですよね。負傷した者を介抱しながら、敵中を突破する武勇伝的な話も沢山ありますが、実際はそんな華麗な事ばかりではなかったようです。
殿に配属された人間はまさに地獄の真っ只中で、自らを守るので精一杯であったでしょう。負傷し歩けなくなった者、全員を連れて帰るなど不可能である事は想像しやすいと思います。戦闘が出来なくなった兵隊は基本そのまま捨てられるのです。
「自分がここに踏み留まる!どうかこいつ(重傷者)を国に連れ帰ってくれ」「わかった、任せろ!」ここまではドラマや映画でよく見かけるやり取りです。しかし実際の戦場では、この重症者を介抱する振りをして、殺して打ち捨てて行くこもあったようです。
関ヶ原戦での島津軍の捨て奸(がまり)。
西軍に組していた島津義弘軍。石田三成とソリが合わなかってようで、三成の言動に素直に従わず、義弘は積極的には戦わなかった。やがて西軍が崩れ始め各隊が逃げ始める。東軍は追撃戦を始める。島津軍は戦場に踏み留まり応戦していたが、東軍に囲まれる形となり、身動きがとれなくなっていた。
関ヶ原の辺りには、島津を囲む5千程の兵、そして前方に家康の本陣があった。他は追撃戦で西軍を追っていった。島津義弘は決死の退却戦に移る。ここで島津軍は捨て奸(がまり)戦法を駆使した。
捨て奸とは、追ってくる敵の街道沿いに少数の部隊を配置し、追撃部隊を食い止める。皆死ぬまでこの追撃隊に食らいつきます。トカゲが尻尾をきって逃げる様な形です。
島津義弘は大胆にも北国街道を南下し、家康本陣に向かって突撃を決行します。家康本陣の前方斜めを駆け抜け、その先には小早川秀秋の軍ががあり、これに一撃を加え、伊勢街道沿いに南下して行く。
ここに、徳川の追撃軍、本多忠勝、井伊直政、松平忠吉の隊が島津を追撃しました。島津義弘は数回にわけ、捨て奸を配置して徳川の追撃を振り切りました。
関ヶ原での島津の例は少々特殊であるが、殿とは、勢いに乗った敵を足止めする大変危ない行為で、死を前提にしているとはいえ、やはり生還してこそ功績として恩賞と名誉に預かれるので、なとしても故郷に帰らなければなりません。
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