死者を供養する首供養
織田信長が長篠合戦で勝利したとき、武田信玄に勝ったと宣伝していた。当時の武田家当主は武田勝頼である。
信長にとって武田を滅ぼした事は東の最大の脅威を排除したことになり、さらにあの武田家に勝った事実は他勢力に対しての畏怖には最適な宣伝であった。
そのため誇張して宣伝していたのだ。信長は武田方の兵の首を集め、塚を築き大々的に供養した。この塚を信玄墳とした。
首塚
基本的に功名にならない首はそのまま戦場に捨てられるが、心ある将はそれらの首を塚を築き埋め、僧を呼び寄せ供養した。
首級の記事の方でも少し触れたが、この首供養にも身分により、その扱いに違いがあった。
上級武者、主君より母衣をつける事を許可された者や奉行クラス、御使番などの武者には一騎につき、二十一日経ってから僧を呼び読径してもらい塚を築き供養をする。それ以外の上級武者に該当しない首は三十三人ごとに、一区切りとして、二十一日後に供養をしていた。
現在でも残る首塚は、こういった経緯で立てられていた。しかし戦場でその暇が無く粗末に作られた塚には矢を一本だけ立てて済ませていたようです。
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