首実検

首実検

軍の編成 組織 役職

戦後、武士達の働きを論功行賞により評価をするが、その判断基準の一つとして首実検が行われていた。

首実検とは、敵将、ある程度知名度がある将や、由緒ある身分の高い者、討ち取らなければならなかった人物を確認する為のものでもある。

将によっては、憎い敵将を大勢の前で侮蔑する為に行っていたり、または死んだ敵将に対して礼儀や賞賛を示すものでもあり、いろいろな意味合いで、いわば儀式としてのニュアンスで行われていた。

首実検

古くは、さほど形式ばったことはしていなかった様だが、次第に自軍の士気高揚の為であったり、勝利を分かち合う等を主将主導の下でやるため、作法が重要視されるようになった。

室町時代に入ると、首実検の礼儀や作法が高度化し、儀式化して行く。よって首実検はその戦いに参加している重臣以下一同将達の前で行われていた。

公式に首実検の様子が記録されている古い書物は「吾妻鏡」で、義経の首実検の様子が記されている。

首実検中居並ぶ将達は、弓、薙刀、槍等を持ちに武装化されている。これは敵方が首を奪い返しに襲撃してくることを想定している為であるのと、死者に対し正式な戦で討ち取ったとする、武士の礼儀を示す為である。

首実検中は、主将の左側に演奏家も同席していた。

上のイラストは首を持参した者が主将に首を見せる様子を書いているが、これは全国一律に同じなわけではない。上の図は「書礼袖珍宝」に記されているやり方だ。

「軍用記」では首を見せる時、胡座(あぐら)をかいて、首を乗っけている台から首を持ち上げて、右の横顔を見せたとある。

首を検分する主将は立ち上がり、太刀の柄に手を掛け少し抜きかけにする。弓杖をつき、顔をやや右に向け左目尻でチラ見をして、再び見ることはしない。

この時主将の側にいる演奏家が首をとった者の名、討たれた首の名を読み上げるのだ。

こうして検分が終わると、主将は弓を右手に持ち替え、左手で軍扇を開き音頭をとる。

その後、首は大罪を犯したとされた者は獄門(詳しくは)にされ3日後に捨てられ、主立った者ではない首は一度に並べられ検分するが、これを首見知りと呼んでいた。

後は、門外に首を置き、敵方の方角に向かって勝どきを上げ、首をとった物が首に酒を飲ませて北方に捨てるのだ。

こうして首実検の一連の儀式が終了する。

首を持ち帰って来た兵士達は、主将の前に報告に来るが名のある将を討ち取った者には主将も興味を持ち、どういった経緯で討ち取ったのかと話を聞いたりする。

この時証人を立て一緒に主将の前に行く者も多くいた。中には、嘘や話を誇張しおおげさに報告する者も沢山いた。

こんな話がある。

1615年に行われた大阪の陣で、豊臣側の将、真田幸村は奮戦するが振るわず戦線を離脱する。

その首を家康の前に持ち帰って来た男がいた。

この兵士は家康の前でこう説明した「信繁(幸村)と刀を交え激戦の内に討ち取りました」すると家康は「おまえごとき一兵卒に討ち取れるような男ではない!察するに信繁(幸村)は抵抗しなかったのであろう!」と激怒されたたという。

しかし幸村の首に関しての話はどれも確証がなく、こんな話もある。

信繁を討ち取ったのは、西尾宗次という人物であるとされている。越前松平家の鉄砲隊に属していたらしい。その項により家康、秀忠より恩賞を賜ったとする話も残っていて、諸説ある。

現在でも、警察が目撃者に犯人を確認するために面通しをすることを俗語で首実検とも呼んでいる。

参考:図説 日本戦陣作法事典

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