戦いの前の儀式
よく映画やテレビでみたことがあるかも知れませんが。お互いの軍が着陣し向かい合うと、代表者が躍り出て降伏か和睦か等、大声で話し合う。
お互い無益な戦いだ判断すると、ここで軍を撤収することもある。こういった光景は源平争覇期の書物によく見られる。
この大声での話し合いの末、交渉決裂となると主将か代表者が戦闘開始の合図として、敵陣に矢を打ち込む。これを矢合(やあわ)せの鏑始(かぶらはじ)めと呼んでいた。
よく映画やテレビでみたことがあるかも知れませんが。お互いの軍が着陣し向かい合うと、代表者が躍り出て降伏か和睦か等、大声で話し合う。
お互い無益な戦いだ判断すると、ここで軍を撤収することもある。こういった光景は源平争覇期の書物によく見られる。
この大声での話し合いの末、交渉決裂となると主将か代表者が戦闘開始の合図として、敵陣に矢を打ち込む。これを矢合(やあわ)せの鏑始(かぶらはじ)めと呼んでいた。
真田幸隆(ゆきたか)の息子である昌幸(まさゆき)、しかしこの昌幸には兄達がいて、長男信綱(のぶつな)、次男昌輝(まさてる)そして昌幸と続くのだ。
しかし、この二人がピックアップされる事はあまりない。父幸隆や昌幸と違い優秀でなかったから名が知られていないのだろうか?インパクトとしては、確かに幸隆、昌幸に比べると地味な気がします。
ただ後世に伝わる人物像は尾尻がついていたり、少ない資料から連想するしかなく、必ずしも正確とは言いがたい。
信綱と昌輝の二人は寡黙だったのかどうかは分かりませんが、とにかく彼らの言葉が残っていないのです。
しかし、武田軍の足跡を追っていくと、信綱と昌輝の二人の名はくっきりと浮かび上がり、各地を転戦し働いていたことが分かります。
タイトルが物騒ですが、真田スピリッツの始祖であり。幸村のおじいちゃんにあたります。
「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」や「真武内伝(しんぶないでん)」によると幸隆は真田家の始祖とされています。
真田家のルーツは信州の古い豪族滋野(しげの)氏がルーツで、小県郡(ちいさがたぐん)、山家郷(やまがごう)真田に起こった勢力だ。
滋野氏のルーツは諸説あり、どれも定かではないが、平安末期には小県郡に大きな勢力を築いていたらしい。
やがて滋野氏は3家に分家し、小県郡の禰津(ねづ)氏、佐久郡望月に望月(もちずき)氏、そして海野氏となった。
この中で海野氏が本家でもっとも大きな勢力であった。海野氏は代々信濃守を称し、鎌倉時代期の当主海野小太郎幸氏(うんのこたろうゆきうじ)が、さらにに大きな勢力を築いていった。
この流れを加味するとどうも真田が海野氏から分かれたのは、鎌倉時代の初期の頃ではなかったのかと推測できる。
時は流れ室町時代に海野信濃守棟綱(むねつな)の子、幸隆が真田に住んで真田と名乗ったらしい。
しかし幸隆は棟綱の長男なのか、孫なのか、あるいは棟綱の娘が真田家にとつぎその子が幸隆なのか、諸説あり定かではない。
だが年齢から見ると、やはり子と考えたほうが自然だと思います。とにもかくにも棟綱の子が真田家の祖で、それが真田幸隆でした。
信玄の死は遺言により、隠す方針でいた武田軍。しかし瞬く間に周辺諸国が知るところとなる。信玄の死がもたらした影響はとても多きい。
信玄は在世中に自分の代で完結しなくてはならない、信玄にしか出来ない仕事を残したまま死んでしまってのだ。寿命なので仕方ないのだが、自分が跡取りとして見込んでいた勝頼に愚将としてのイメージを後世にまで残すこととなった責任の一旦はやはり信玄にあると、管理人は考えています。
前回の(武田勝頼は愚将なのか?武田家を滅亡させた将)では、信玄の代ですでに織田家との開きは大きく、この2つの家の体質の違いに触れました。今回は勝頼がどういった経緯で武田家当主となっていったのか、追っていこうと思います。
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勝頼は諏訪頼重(すわよりしげ)の娘、諏訪御寮人(すわごりょうにん)の子で。信玄が諏訪氏を武力制圧した時、諏訪御寮人を側室に娶った。
しかし信玄のこの行為は家臣達から大変に不吉で危険だとし、猛反対にあったそうだ。そん中で勝頼が産まれます。
勝頼は諏訪を完全に武田方の傘下に組み込み安定させる為の橋渡し的な存在だった。その為勝頼は程なくして信玄より、高遠城城主に任じられる。
真田幸村の若い頃の名は“源次郎”です。兄信幸の方は“源三郎”です。これ通常名前の数字から見てみると順番が逆なんですよね。
このことにより色々な憶測や推測、仮説が立ったようです。
記録上では父昌幸の正室である山手殿(この方は京の公家の娘であるとする説と宇多氏の娘であるとする説がある。)から、信幸と幸村が産まれている。
しかし、兄信幸の方が”源三郎”で、弟幸村が”源次郎”となっています。