日本での略奪や人取りはいつ頃から行われていたのか?

”生きる”事自体が困難で難しかった。

月 桜

管理人は昔々学生の頃、日本での乱世、戦争が日常化していた時代は、その国ごとにある程度、貯金とういうか余剰が出来た時点で初めて軍事侵攻を起すをものだと思っていました。しかし、そんな生ぬるい時代ではなかったと言う事が、近年沢山の研究家の書籍のおかげで伺い知ることが出来た。

現在でさえ世界的に見れば、食う事にすら困って飢饉に苦しんでる割合がいかに多いか。近代化した現在ですらこの様なのだ。当時の戦い、戦争とはこういった”生きる事”自体が困難な事から来る、根源的な動機から発生しているという視点がもろに欠落していたなーと思います。

他国に侵攻するにあたっての目的とメリットは、侵攻先の食糧、財産、人間(人取り)による収入であった。
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陣中で乱暴狼藉を禁止する制札。これには何の意味もない。

横行する、乱暴狼藉、略奪

軍の編成 組織 役職

戦時下において、戦場となった土地では、略奪(詳しくは)が横行する。武士でない者には、戦争に参加した所で、相当な活躍が無い限りなにか恩賞があるわけでもない。その為武士でない兵隊達にとっては現地での略奪こそが、主な収入原であった

これは、何も特別なことではなく、何処の軍もこうやって下級兵達を養っていたのです。下級兵とは農民でその中に夫丸や陣人(詳しくは)そして足軽などに配属されている者達、その他には戦争を生業にして戦場があるところに出向く傭兵のような連中が主だったメンバーでした。

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“へたれ”として永遠にイジられ続けて来た小早川秀秋。彼の人生、其の四

豊臣政権下の権力闘争に翻弄される秀秋

軍の編成 組織 役職

前回の記事からの続きです。秀吉が死去した所まで書かせて頂きました。秀秋は慶長の役での遠征から帰国後、秀吉から減封処分を受けていた。越前北の庄への大幅な減封処分だった。

この処分を家康が計らい、五大老連名での減封処分取り消しを秀秋に通達した。

秀秋はこの処置をどう感じていたのか?秀秋にとって秀吉の死は自分に敷かれていたレールをすっぽりと外されてしまった状態であった。秀秋にとって秀吉は憎悪の存在でもあるし、最も受け入れて欲しい人物でもあった。つまり秀秋の人生のビジョンはこの秀吉にどう思われているかが焦点になっていたのではないでしょうか?

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“へたれ”として永遠にイジられ続けて来た小早川秀秋。彼の人生、其の三

異国で指揮官を務める秀秋、その姿はドラマで登場する秀秋とは別人。

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前回からの続きです。慶長の役がいよいよ始まった。この遠征軍の総司令官に任命されたのが小早川秀秋でした。秀秋の胸中はどうあれ、大抜擢であった。

今回の遠征軍は中国、四国、九州の勢力を軸に編成され、遠征軍は次々と渡海を果たし侵攻を開始する。その軍団編成は、

第一軍団-加藤清正。

第二軍団-小西行長や宗義智(そうよしとし)等。

第三軍団-黒田長政、島津豊久、毛利吉成等、

第四軍団-鍋島直茂、勝茂等。

第五軍団-島津義弘。

第六軍団-長宗我部元親、藤堂高虎等。

第七軍団-蜂須賀家政、生駒一正等。

第八軍団-毛利秀元、宇喜多秀家。といった編成であった。

小早川秀秋は、釜山周辺の守備に当たる事になる。遠征軍は総勢14万程だったそうだ。

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“へたれ”として永遠にイジられ続けて来た小早川秀秋。彼の人生、其の二

自分の意思で人生を設計できない、秀秋の宿命。

軍の編成 組織 役職

前回の記事(詳しくは)の続きです。前回は秀吉に実子である秀頼が誕生し、秀吉の後継者候補達が危うい状況になってきた所までを書かせて頂きました。

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秀吉は、養子に迎えた者達が将来秀頼の障害になる事を恐れ始めるが、特に身内である秀次と秀秋がその最もなる人物だ。そこに黒田孝高(くろだよしたか)が秀吉につぶやく「よき案がございます。」

孝高は秀吉が覇業を成すのに大きく貢献し人物、相当なキレ者だ。孝高が目を付けたのは、毛利家だ。当時の毛利家当主は輝元であったが、彼には実子が無く、ここで秀秋を毛利家に養子として送り込む事を進言したのだ。

これを毛利側は察知するが、表立ってこれを拒否すことができない、毛利家の豊臣政権下での立場が危ういものとなるからだ。

ここで輝元には叔父にあたる小早川隆景が先手を打つ。隆景はすぐさま秀吉に秀秋を小早川家に養子として迎えたいと申し出たのだ。

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“へたれ”として永遠にイジられ続けて来た小早川秀秋。彼の人生、其の一

秀秋の消えることのないイメージ

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小早川秀秋。戦記物に興味がない方でも一度は耳にした事がある名前ではないでしょうか?この人物、関ヶ原戦で、西軍に組しながら、東軍に鞍替えをして劇的な裏切り劇を見せた人物です。いまさら説明をするまでもありませんね。

さて関ヶ原戦後、何百年も経ちますが、彼がドラマ等で取り上げられるのは、やはりこの戦いでの姿で、彼の人物象とういいますか、持たれているイメージは優柔不断、浅はか、臆病、軽薄、等々人に向けられる侮蔑的な印象をすべて兼ね備えているような感じです。

関ヶ原戦の模様は数々の小説やドラマ等で取り上げられてきましたが、物語を面白くするため、この小早川秀秋はイジり倒されてきました。

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平将門が率いた伴類と従類。

平将門が率いる集団

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今回は少し古い平安時代、まだ武士団という言葉が使われる前の話です。

この平安時代での象徴的な人物の一人が平将門でしょう。将門が率いた戦う集団も、使う兵器や集団の組織編制の多少の違いはあるにせよ、騎馬と歩兵で構成されていました。この辺りは後世の軍と変わりはありません。

将門の乱を記した「将門記」には、伴類という言葉がでてきます。

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