信長の引き立て役として、どうしてもイジられちゃう名将今川義元 其の三(桶狭間後編)

今川義元の戦い、それは順調であった。

軍の編成 組織 役職

前回の続きです。今回は桶狭間後編です。

今川義元

現在の状況は、

桶狭間_03

-今川軍-

丸根砦(兵数400)、佐久間大学が指揮官のここを松平元康(兵数2000)が攻撃中。

 鷲津砦(兵数400)を守るのは織田秀敏ここを、朝比奈泰朝(兵数2500)が攻撃中。

と言われているが、兵数に関しては諸説あり正確とはいえない。

● 義元本軍が沓掛城が出陣、大高城を目指す。

-織田軍-

今川軍の丸根、鷲津両砦の攻撃が始まると、清洲を出陣。

といった状況だ。

単純に今川攻撃部隊と織田砦守備兵の戦力差では砦を守り抜くことは難しい。

信長の狙いは砦は捨て駒・・・時間さえ稼いでくれればいい。この時点で義元の本陣は砦攻撃部隊と沓掛城に置く守備兵とで義元率いる部隊の数は減っている。ただ正確な兵数はわからない。少なくとも戦力は分散されている。

当然砦を守る織田方の将は清洲からの何らかの対応を期待し奮戦するが叶わず、両砦は陥落する。だが、すんなり落ちたわけではないようです。今川方の松平元康軍の被害は相当なもので、松平正親を始め多くの指揮官を失っている。元康隊は大高城に戻り人馬を休息させている。

さて義元本陣は大高城目指し進軍中でその頃、織田方を警戒しながら桶狭間山付近まで来ていた、ここで両砦陥落の報が義元本陣に届く。こうなればもはや急ぐ必要なし。ちょうど時刻も昼だったので、桶狭間山前方に前衛軍を配置し本陣は桶狭間山に陣を敷き休息に入る。

一方信長は、善照寺砦に入る。ここを守るは佐久間信盛だ。すでに陥落した丸根砦を守っていたのは佐久間大学。信盛の一族だ佐久間一族は前線に出ていて清洲城にいた信長の様子を知らない。←ここちょっと覚えて置いてください。ここで信長の軍は佐久間信盛の隊と合わせて3000程の隊になっていた。

因みに桶狭間山からは、善照寺砦は視認できるそうだ。義元は信長の動きを把握しながら、軍を休憩させている。信長のほうも義元本陣の動きを知ることが出来たようでお互いが視認でできた状況である。

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信長の引き立て役として、どうしてもイジられちゃう名将今川義元 其の三(桶狭間前編)

東海一の弓取り、桶狭間に散る。

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前回の続きです。駿河、遠江、三河を領する巨大勢力になった今川義元でした。しかし彼はその後織田信長によって討ち取られます。

今川義元

今回は桶狭間の記事なのですが、この戦いに関しては至る所で紹介されているため、正直今更記事にすのもな~と思っていたのですが、今川義元さんがテーマなので、やっぱり外せないということで、なるべく分かりやすく戦いの行方を紹介できればと思っております。

しかしこの桶狭間の戦いは、現在でも様々な方達が日々研究を行っていて、旧来の信長の奇襲説が見直される傾向にあるようです。

現在まで定説となっていた、信長の奇襲攻撃による戦いの考察は元々戦前の帝国陸軍参謀本部が考察し編集したものが、現在まで定説として語られ、学校の教科書でも習ったと思います。この考察も時間が絶ち各方面の研究からどうも違うぞ?といった信長の新説ルートであったり、そもそも奇襲ではない等の見方がでてきていて、管理人もなにがなにやらでよく分からないというのが、本音です。

ですので現在まででこれが妥当な見方なのかな?といった所を紹介してみようと思います。

また、黒幕に武田信玄が絡んでいたとかetcいろいろな話しがありますが、こういった話はこの記事では省きます。又別記事で紹介できたらと思います。とにもかくにもこの戦いは非常にミステリアスで、いろいろな考え方や見方が出来る戦いです。

桶狭間戦は少々長くなりそうなので、2回に分けます。

義元進軍ルート

ではいきましょう東海一の弓取りが敗れる桶狭間の戦いです。

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信長の引き立て役として、どうしてもイジられちゃう名将今川義元 其の二

今川義元、社長就任早々の荒波

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前回は義元が、今川家の当主になるまでを紹介させていただきました。いわゆる花倉の乱と呼ばれる事件だ。

地図1530

義元の兄氏輝が死亡したのが天文5年の1536年であった。

義元が当主として動き出すのもこの頃で、大雑把で恐縮ですが、上図は1530年頃の勢力分布図です。相続争いを制したが義元はここらが正念場であった。今川家はまだ内部の統制が図れていない状態であったが、外の状況がそれを待ってはくれない。

義元が当主に就任した頃の今川家は家督相続争いのダメージがまだ抜け切っておらず、隙あらば他国に走ろう、義元を追い落とそうする勢力があり、足並みはバラバラで前途多難な状態であった。

義元はまず氏輝の代まで抗争が続き険悪であった、武田信虎の娘を正室に迎えることに成功し、武田家との関係を良好な状態に持って行き今川家の安全を図った。

しかしこれが、北条氏綱の逆鱗に触れることになる。北条家も又、武田家とは険悪な状態が長く続いていた。氏綱は花倉の乱の折義元に加勢した過去があるので、義元の態度に激怒したのだ。北条氏綱は兵を挙げ駿河に侵攻してきた。氏綱は名将。

しかも今川家は先の花倉の乱が尾を引き家臣団のほころびが見え、足並み揃わぬ状態で氏綱と戦闘状態となった。この戦いで義元は駿河の東部(静岡県東部)を占領されてしまう。当主になって直ぐの手痛い洗礼パンチを食らう。

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信長の引き立て役として、どうしてもイジられちゃう名将今川義元 其の一

信長のヨイショ役今川義元

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今川義元さん。彼もまたショボイ人物として描かれることが多く、私管理人も昔々はドラマ等で語れる今川義元像を鵜呑みにしいていました。義元のこういった形の印象が強まったのはやはり大群を率いながら、少数である織田信長に討たれた、桶狭間の戦いが原因でしょう。

最近でこそ今川義元目線で描かれる読み物等が多く出ていますが、昔は殆どありませんでした。大概は信長が主人公であり、信長が大きく飛躍する為の駒として、お決まりのネタに近いような扱いをされていました。

その義元像は、名門にあぐらをかき、お歯黒にし京かぶれで下を見下し、太っていて馬にも乗れず、最後討たれるシーンは無様に地べたを這いずり逃げ回り命乞いをして討たれるといった所ですね。

まさに志村けんが演じるバカ殿のようなイメージです。

桶狭間戦での信長の鮮烈な勝利を彩る為、義元はとことん蔑まされる形で桶狭間のシーンの所だけで登場します。物語の演出上まあ仕方ないのかな?という気がしますが、やはりちょっとやりすぎだろうと言う気がします。

今でこそこいういった義元の人物像が創作された物であることは、多くの人が認知する所でありますが、管理人のようなテレビっ子世代の人達なんかは当時今川義元をショボイへたれとして認知していた人も多いのではないかな?と思います。

この人物ならどんないじり方してもOKだろうみたいな風潮になってしまっているような気がします。小早川秀秋さんとちょっと似た扱いです。

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甲陽軍鑑もろとも怪しい扱いをされてきた、山本勘助さん。

未だに根強い勘助架空説。

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山本勘助さん。ドラマ・小説・漫画・ゲームで引っ張りだこです。管理人もこの人物大好きです。

武田家の版図拡大に大きな貢献をし信玄のブレーン。その容貌もまた勘助の魅力を際立たせる。身長は低くあざ黒く、手の指も揃わず、右足は不自由、右目は潰れて失明した醜男であったという。

ここまで人物像がはっきりしているのに、この方は架空の人物臭がプンプンする謎の多い人物だ。まあそれが故に魅力的なのかもしれない。

扱いとしては義経と行動を共にした弁慶だとか最近だと聖徳太子も架空の人物だったのでは?と論議されていますが、山本勘助にこういったイメージを持っている方も多いのではないでしょうか?

甲陽軍鑑もろとも怪しい扱いをされてきた、山本勘助さん。

山本勘助は甲陽軍鑑以外の書物には登場しないため、古くから架空説がささやかれていたのだ。たどるとそれは江戸時代まで遡ります。

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「出陣じゃ~!」の前にどうやって人を沢山集めていたの?

出陣の前に人員集め

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「出陣!」と号令がかかり、城の大手門から部隊が出発するシーンを時代劇でよくみかけます。

さて、こういった大部隊が編成されるまでには、農村や城周辺に住む者達を沢山集めなくてなりません。この過程はドラマ等ではストーリー上どうでもいいシーンなので、端折られてしまいす。

城にいる首脳陣達が他国への侵攻の決意がまとまったり、他国が侵攻してきた際に人員を召集しますがその過程をご紹介します。

戦争に発展するケースは様々で、敵国へ侵攻、敵国から攻めて来る以外にも、同盟国からの要請であったり、朝廷、幕府からの要請といった感じで、いつ何時軍を編成しなければならない状況が訪れるかわかりません。

事いたってこのよな状況になると、あらかじめ決めている合図があり、太古を鳴らしたり、鐘を鳴らしたりするのだ。すると城付近に在住している臣下や農村から人員が徴収されます。

「出陣じゃ~!」の前にどうやって人を沢山集めていたの?

しかし距離が遠い場合は早馬を飛ばし口頭、あるいは書面でもって伝達をしていました。

少々余談になりますが、甲州武田軍はこの伝達を狼煙を使って各方面に伝達していました。この方法は早馬を飛ばすよりも早く遠くへ情報を伝えられ、武田軍は大変優れたシステムを構築していた。

早馬の伝達をする際はタイムラグを防ぐためあらかじめそれを計算して早馬を出し、急な召集でも対応可能な状態を常に保ち、連絡を受けた者は部下を連れ陣所に駆けつけるのだ。

郎党等の部下を持つものは、いわゆる武士クラスの人間で、戦国時代では身分の高い武士は通常城周辺に住居を構えていて、素早く状況に対応できるような工夫が成されていた。

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武士達の首級の扱い

首級に付けられる札

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首実検(詳しくは)や首級(詳しくは)の記事で戦後の死者への扱い、作法や儀式を書かせていただきましたが、これらの風習には、他の国には見られない日本独特の作法が多く存在し、武士ならではの作法だ。

首級2(詳しくは)の記事でも少しふれましたが、敵将の首の扱いをもう少し掘り下げて紹介したいと思います。

武士達は戦後、自分の手柄を敵将の首とし主将の元に持参します。

これを首実検といい主将が敵方の討ち取られた将を確認したり、自軍の将の手柄の度合いを評価する場が設けられていました。この首実検を行うまでの期間、将達はそれぞれ首を保管します。

保管する際、首の血や泥を荒い流し綺麗な状態にして、首札(くびふだ)と呼ばれる板をつけて保管しました。その札には、その個人が特定できる名やその人物の行為等が記された。

武士達の首級の扱い

この首札は髪の毛にくくりつけられるのだが、入道首には髪にくくれないので、右耳に穴を開けてくくりつける事がありました。

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