天才秀吉すらも苦悩した、時代の大変換期。現在の私達も似たような時代に居るのかも?

混迷する現在の日本

月 桜

この記事をかいているのは、2013年だが、10年前20年前に比べると明らかに日本国内の情勢は変わっている。その変化の仕方は早く少々混乱気味で皆将来に対してあまり希望を持っていないように見える。

世の中にコンピュターが導入され、インターネットが普及し、ビジネスのあり方が変わってきた為、人々の生活様式が変化してきました。この流れは世界を身近にし、国境をあやふやにする勢いです。日本国内の不安情勢は世界の動きに密接に連動していて、もはや国内だけでは解決しがたい状況になってきていて、官僚、政治家、民間人がそのスピードについて行けず、右往左往している状態に見えます。

その昔日本は常に理想の国家像なるモデルがあり、それを参考に独自の価値観を組み合わせて、日本を独自に運営してきました。

大昔の日本であれば隋や唐に役人が留学し国家統治のノウハウを学び日本に持ち帰り、それを日本独自に改良し国内に定着させた。

その後江戸の終わりに、実は海外に民主主義とうい国家像がることを知ると、日本はそれに邁進していきました。まだ海外が遠く彼方であった頃は海外に今の日本より優れた国家体制がある可能性があったのだ。

しかし現在世界は開き身近なものとなった。

見回してみるとどこの国も苦しそうなのだ。日本人は懸命に働きいつの間にか世界一の経済大国になっていて、見渡すと日本を越える素晴らしい国が見当たらなくなっていた。現在では日本の経済は落ち込んでいて苦しんでいるが、これといった対策方法もわからず、また模範とする国が無い状態なのではないでしょうか?

一度出来上がったシステムを改良し安定させて早く回して行く能力は、日本人に勝る民族は居ないでしょう。しかし1から新しいシステムを作り出す事はどうも日本人は苦手なようです。

天才秀吉すらも苦悩した、時代の大変換期。現在の私達も似たよな時代に居るのかも?

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現在はまさに時代の変換期でどれが正解か見出せず、また、いいアイディアが思いつきもしない苦しい時代だと思います。そんな時代ですが、昔の日本にも同じような時代がいくつかありました。その一つが秀吉の天下平定事業の時代だと思います。

秀吉は全国の大名を自政権化に組み込む事に成功し、日本から急速に戦場が閉鎖されていきました。秀吉は自分の政権を安定させる為、戦争にまつわるあらゆる行為を禁止して、人々を戦争から遠ざけていきました。

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戦場の高みの見物。それはお気楽な傍観ではなく農民、百姓のしたたかな計算がある。

戦場の行く末を監視する農民、百姓

月 桜

戦争が起こると、農民、百姓は、城上り(詳しくは)、山上り(詳しくは)といった方法で非難をするが、その後このもの達が山や高台から気楽に戦争見物を決め込んでいるといった話を聞いたことがありませんか?

確かに昔の書物等にこのような光景を描いているものがあります。しかしこれは少し楽観的な見方であるようでしす。

彼ら非戦闘員は非難した後戦争を傍観しています。しかしその避難場所を敵軍に知られると、戦闘がひと段落した時点で敵軍が襲撃してくる可能性を十分に秘めているので、決して気楽な見物といったわけではなかったようです。

農民の避難と仕返し

集落の側に領主の城や砦がない場合、非戦闘員は山に逃げ込み普段からある程度の防衛が出来る準備をしていました。これは隠れるといった意味と、いざという時の防衛の為の処置です。彼ら彼女らは武士ではありませんし、なにより大事なのは自分達の安全です。そのため武士のような誰それに一生ついていきます的な主従の感情は極めて低いのだ。

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百姓、農民が戦争被害を避けるために取ったしたたかな方法(半手、半納、風見鶏偏)

どっちつかずの方法、半手、半納

月 桜

よく歴史物の小説やドラマ等で、○○村に火を放ち退却!といったシーンを見かけたことありませんか?自勢力化の村や集落をわざわざ燃やしてしまうのです。

管理人が製作したもので恐縮なのですが、三方ヶ原の戦(詳しくは)いの動画内でも、徳川方が遠江の見附集落に火を放ち退却といったシーンが出てきます。これは、武田方が見府周辺に迫ってきた時、徳川方はその周辺に偵察隊を出していました。当時見附は家康の管轄する領土の一部でした。わざわざそこを燃やしてしまうわけです。どうして?と疑問に思う方もおられると思います。

三方ヶ原の戦い

これはですね、敵方に集落を占領されてしまうと、略奪が始まり、年貢の徴税権をも奪われてしまうからなんです。

敵方を潤わしてしまうからなんですね。敵方に米、麦、馬、人等々、戦力になりうるものを提供してしまうなら、燃やしてしまえという事なんです。焼け野原となった集落からは何も取れなくなります。乱世の世にあっては、こういったケースが往々に行われていたようです。

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兵隊を兼業していた農民、みんな武士に成りたかったのか?2

久々の大戦!大阪の陣

月 桜

前回記事の続きです。前回農民は食うに困り職を求めて戦場に出稼ぎに出、秀吉の全国平定により戦争が激減したところまでを書かせていただきました。

今回は時は流れ、家康が幕府を開きいよいよ豊臣を滅ぼそうと動き出した頃のお話です。この時代になっても戦場はやはり百姓にとっては魅力的な働き場所であった。当時いよいよ大きな戦が始まるぞと全国が浮き足立っていて、農民や百姓達はその動向を伺っていた。後の大阪の陣である。

大阪城

百姓達にとって、関東軍も豊臣も関係ない。職を募集しているのであれば、そこに向かうまでなのだ。戦争があれば農繁期であろうが、土地を離れ出稼ぎに向かおうと考える者達が多く居た。

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兵隊を兼業していた農民、みんな武士に成りたかったのか?1

戦場に出稼ぎする農民

月 桜

戦国の世で大出世を果たしたのが豊臣秀吉であった。世の中が下克上であったのは確かだ。百姓が出世を目指し田畑、家を捨て奉公を目指し旅立って行く・・・当時の若い農民や百姓になんとなくこんなイメージがりませんか?

きっと当時の若者にもこういった人達は沢山いたでしょう。現在の人間だって都会に出て一旗上げようと思う人が居るのと同じだと思います。

農民の避難と仕返し

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こいった若者が純粋に成功したいと願い、奉公を目指し戦場に出稼ぎに行く夢いっぱいのお話ではないのが、当時の現実だったようです。農民達は農耕だけでは、生計が成り立たず兵隊を兼業していたとの見方の方が正確なようです。食糧、金銭のやりくりが在の私達が想像するより遥かに厳しかったようだ。

中世の日本での兵役はどの国でも、戦争があれば発動される法であって、農村の人間が強制で徴収される。一般的なイメージで泣き叫ぶ嫁や子をなだめ、悲壮感漂う中で戦場に向かう画が浮かんできます。もちろんこういった想像は間違っていないでしょう。家の働き手を戦場に連れていかれてしまうわけですから。

しかし現実は農耕の営みだけでは、とてもとても家族を養いきれないので進んで戦場に出稼ぎに行く者達も多かったのも当時の現実だったようです。

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農民が繰り広げる抗争、これが国家間戦争のトリガーとなる。

飢饉に悩まされる人々

月 桜

中世において、人々は集落を形成しその集まりは一つの国家として政治機能を持ち運営されていた。(詳しくは)

農民の抗争

しかし当時の日本では、慢性的な食糧不足に苦しんでいたようです。そのためちょっとした災害でたちまちに食べのが無くなり飢饉が起こり、病気が蔓延してしまうサイクルに陥っていた。

人々が抗争(戦争)を起す起爆剤がここに隠されているのだ。

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農民、百姓が形成していた集落は今の私達の社会とそっくりです。

生き残りを懸け連合する農民。

月 桜

現在の私達は成人すると、家を離れ何らかの職に就き、個として存立します。そのまま家業を継ぐケースもありますが、殆どが家を離れ個として独立すると思います。しかしこういった光景はつい最近のことで、高度経済成長に伴ってからの話です。

農民、百姓が形成していた集落は今の私達の社会とそっくりです。

それまでは、家というのは、家族が多く主が一人が働き、家族全員を食べさせていたのです。地方から都心に出て企業に勤める、といったことは、結構最近の話しなのです。日本はよく「村社会」と呼ばれることがしばしばありますが、家同士が集まり村単位で家業や生業を営んでいたのです。

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