戦国の名将、北条氏綱の言葉
北条氏綱という方をご存知だろうか?この方は、あの北条早雲の後を継ぎ北条家を拡大させた戦国の名将です。彼の名将ぶりを紹介し出すと膨大な文字数になってしまうので、この記事では控え又別の機会で紹介したいと思いますが、とにかく彼は名将です。
北条氏綱さんは、その後氏康に当主の座を譲り引退します。
北条氏綱という方をご存知だろうか?この方は、あの北条早雲の後を継ぎ北条家を拡大させた戦国の名将です。彼の名将ぶりを紹介し出すと膨大な文字数になってしまうので、この記事では控え又別の機会で紹介したいと思いますが、とにかく彼は名将です。
北条氏綱さんは、その後氏康に当主の座を譲り引退します。
秀吉の刀狩の令。これは学校の教科書でも出てくる秀吉が作った有名な法令です。さてこの法なんて教わりました?おそらく、全国の人々の武装を解体し再び国内が乱世に逆戻りし豊臣政権を打倒するような勢力を封じ込める・・・・といったような教わり方をしませんでしたか?
まあこれは間違えではないし合っているといえば合っていると思います。この法令が敷かれたのは、秀吉が政権を開き日本平定事業の一環で敷かれた法で、秀吉はこのほかにも沢山の法令を発行しています。政権転覆を目論む勢力を封じ込めるといった以前に時代の変わり目に起こる大きな歪、これが豊臣政権の大きな課題で、戦争がない世の中をどう成立させるのかといった事が秀吉の課題でした。
甲陽軍鑑の書。この書の評価は長年紆余曲折を経て現在でも、親しまれている書ではあるが、歴史研究家には、この書は読み物として読むもので、史学として扱うのは危険だとする辛い見方をしている方も多いようです。
ところで甲陽軍鑑って何だよ?って人のため簡単な説明しておくと、武田信玄から勝頼2代に渡っての実績や作法、軍法、合戦を記した書で、計23冊で構成された書であります。
この書が書かれ概要が出来上がったのは、長篠の戦いで武田軍が敗戦し多くの戦死者を出した戦いの、直前の頃だとされていて、しかも執筆にあったのが信玄の重臣、高坂昌信がその大部分を書きその後、甥である春日惣次郎(かすがそうじろう)が引き継いだとする説が有力だそうです。
女性の社会進出が多くなってきた昨今ですが、会社等の組織の中で女性が何かしらのプロジェクトリーダー、あるいは役職に付き部下を持つ立場になる方が増えてきてると思います。
しかし、この立場になり、いかに仕事をうまく回し成果を上げることが難しいかを実感するのではないでしょうか?これは男性であろうが同じ道を辿ると思います。そんな時どうしますか?先輩にアドバイスを求める、部下の意見を聞いてみる、方法は沢山あると思います。中には書店に行き自己啓発本やビジネス書を買いあさり勉強するのではないでしょうか?
管理人は結構自己啓発本は好きで、読んでる方だと思いますが、実は鵜呑みにはしてないのです。というよりほんと参考程度です。書店に並ぶ自己啓発本の類はほんと沢山あります。しかしその殆どは昔の人が書いた焼き直しというか、少し言葉や表現を変えて書いてあるあるだけで、内容はたいして変わらないと言うのが管理人の感想です。
これら自己啓発系、ビジネス書のパイオニア的な存在といえば、ナポレオンヒルやデールカーネギーらがそれに該当する人物だと思います。
しかし、実際の現場では不足の出来事が大量に起こります。一人のリーダーが頭の中でシュミレーション出来る事などたかが知れていますよね。現場は刻一刻と状況が変わって行き目まぐるしいのが現実で本の通りにまず事は進まないでしょう。
前回からの続きです。慶長の役がいよいよ始まった。この遠征軍の総司令官に任命されたのが小早川秀秋でした。秀秋の胸中はどうあれ、大抜擢であった。
今回の遠征軍は中国、四国、九州の勢力を軸に編成され、遠征軍は次々と渡海を果たし侵攻を開始する。その軍団編成は、
第一軍団-加藤清正。
第二軍団-小西行長や宗義智(そうよしとし)等。
第三軍団-黒田長政、島津豊久、毛利吉成等、
第四軍団-鍋島直茂、勝茂等。
第五軍団-島津義弘。
第六軍団-長宗我部元親、藤堂高虎等。
第七軍団-蜂須賀家政、生駒一正等。
第八軍団-毛利秀元、宇喜多秀家。といった編成であった。
小早川秀秋は、釜山周辺の守備に当たる事になる。遠征軍は総勢14万程だったそうだ。
前回の記事(詳しくは⇒)の続きです。前回は秀吉に実子である秀頼が誕生し、秀吉の後継者候補達が危うい状況になってきた所までを書かせて頂きました。
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秀吉は、養子に迎えた者達が将来秀頼の障害になる事を恐れ始めるが、特に身内である秀次と秀秋がその最もなる人物だ。そこに黒田孝高(くろだよしたか)が秀吉につぶやく「よき案がございます。」
孝高は秀吉が覇業を成すのに大きく貢献し人物、相当なキレ者だ。孝高が目を付けたのは、毛利家だ。当時の毛利家当主は輝元であったが、彼には実子が無く、ここで秀秋を毛利家に養子として送り込む事を進言したのだ。
これを毛利側は察知するが、表立ってこれを拒否すことができない、毛利家の豊臣政権下での立場が危ういものとなるからだ。
ここで輝元には叔父にあたる小早川隆景が先手を打つ。隆景はすぐさま秀吉に秀秋を小早川家に養子として迎えたいと申し出たのだ。