“へたれ”として永遠にイジられ続けて来た小早川秀秋。彼の人生、其の一

秀秋の消えることのないイメージ

軍の編成 組織 役職

小早川秀秋。戦記物に興味がない方でも一度は耳にした事がある名前ではないでしょうか?この人物、関ヶ原戦で、西軍に組しながら、東軍に鞍替えをして劇的な裏切り劇を見せた人物です。いまさら説明をするまでもありませんね。

さて関ヶ原戦後、何百年も経ちますが、彼がドラマ等で取り上げられるのは、やはりこの戦いでの姿で、彼の人物象とういいますか、持たれているイメージは優柔不断、浅はか、臆病、軽薄、等々人に向けられる侮蔑的な印象をすべて兼ね備えているような感じです。

関ヶ原戦の模様は数々の小説やドラマ等で取り上げられてきましたが、物語を面白くするため、この小早川秀秋はイジり倒されてきました。

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秀吉から学ぶ、お金の作り方。

他の武士たちと何処か違う秀吉

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戦国時代になると、軍事行動を起すのに多額な銭が必要になってきまました。この国の石高は幾つでそこから算出される米の量はどれぐらいか、そこから何人を投入できて、それに対して幾ら必要なのか等の話が出てくると思わず、小難しくて文章を読むのを止めてしまいそうになります。

戦争に勝つには、とにかくにも人数が必要で、戦国大名はこういった数学的な要素にも精通してる必要があった。

数学というと大変堅苦しく、う~~んとなってしまいますが、いかにうまく金銭を儲けられるか、集められるか、という、商売センスや商人との人脈が築けるかが問われたとういことです。

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これにとても長けた人がいました。豊臣秀吉です。彼は皆さんご存知のように、武士の出ではありません。若い頃は庶民として暮らしていました。

そんな彼は、武士ではない人々の生活を肌で感じ知っていました。普通の庶民達がどうやって暮らして、どうやって生計を立てその問題点や解決策を様々な人達を見て学んで行くのでした。

これは武士に無い感覚で秀吉が武士の世界にデビューしてから、周りを出し抜く武器になっていたように思えます。晩年彼は大軍団を導入できるだけの軍事力を持っていましたが、軍の数が多ければ多い程その運営と維持は困難になり、多くの出費がかかります。

これは秀吉がいかに銭や食糧をうまく回していたかの裏づけです。

大軍団の維持に必要なノウハウなどというのは難しそうで、軍事評論家でもない管理人にはよくわかりません。しかし、秀吉は現在の私達でも出来る商売、お金の作り方を教えてくれています。

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戦国期を描いた古画に見られる鎧や兜。なんか違うぞ?

戦国期の人物の鎧がなんか違うぞ?

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鎧 兜

イラストは昔の絵師達が描いた人物画を模したイラストです。下手で申し訳ないが、本物は素晴らしいです。

こういった人物画が現在にも現存しているが、江戸時代に書かれた物が多いらしい。左)武田信玄、右)池田恒興(つねおき)です。人選は適当です。戦国時代に活躍した人物です。

当然この他にも沢山の絵があり皆さんもご覧になった事があると思います。

戦国時代に活躍した人物画あるいは、戦いの様子を描いた絵を見ると、おや?と思う事がりませんか?戦国時代であるにもかかわらず。

多くの古画に見られる人物のその姿には鎧、兜が描かれているが、皆大鎧タイプの甲冑を着ているのです。これ、なんでかな~と思ったことありませんか?

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戦国武将達の最終目標は天下統一!じゃないよ。それはテレビドラマのお話です。

戦国武将達の天下と国家

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いわゆる戦国時代に生きた戦国武将達。そしてその戦国時代の幕引きの形は全国統一という形で徳川家康が果たしたわけですが、全国統一、又は天下統一等とも呼ばれています。

この概念は全国の諸勢力を滅ぼしたり従属させて日本を一つの勢力化に治める形を言います。

かなりざっくり書きましたが、これは戦国時代、乱世を終わらせた最終的な形で私達もよく知っていますよね。

戦国武将

当時の戦国時代の武将達。彼らが皆、その天下統一を目指してその為に戦を繰りか返していたのかというとそれはちょっと違うのです。

殆どの戦国武将達には、日本国全体の天下国家論よりも自勢力こそが国家でその上での国家論、概念を持っていたと言った方がいいかもしれません。

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源平合戦期の一騎打ち(組打戦)

組打ち戦

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武者同士が名乗り出て、一騎打ちが始まると両軍はこの戦いの邪魔をせず見守っている。

名乗り出る際には、自分の家名や名前、年齢そして戦績なんかを大声で相手方に伝える。こうして自分に挑戦してくる相手を求める。

こうした一騎打ちは、武門の誉れとされ見守る者達が邪魔立てしてはならない暗黙のルールがあった。

勝負が始まると、まず弓での騎射戦(詳しくは⇒こちら)が始まるがお互い矢が尽きるなどして勝負が付かないと、どちらかが太刀打戦、あるいは組打戦を要求するのだ。

組打戦の場合「寄れや!組まん」これが合図となりお互い馬で駆け寄り組打が始まる。この相手の要求を受けないことは恥とされいた。

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あまりピックアップされない真田信綱と昌輝

寡黙な軍人信綱と昌輝

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真田幸隆(ゆきたか)の息子である昌幸(まさゆき)、しかしこの昌幸には兄達がいて、長男信綱(のぶつな)次男昌輝(まさてる)そして昌幸と続くのだ。

しかし、この二人がピックアップされる事はあまりない。父幸隆や昌幸と違い優秀でなかったから名が知られていないのだろうか?インパクトとしては、確かに幸隆、昌幸に比べると地味な気がします。

ただ後世に伝わる人物像は尾尻がついていたり、少ない資料から連想するしかなく、必ずしも正確とは言いがたい。

信綱と昌輝の二人は寡黙だったのかどうかは分かりませんが、とにかく彼らの言葉が残っていないのです。

しかし、武田軍の足跡を追っていくと、信綱と昌輝の二人の名はくっきりと浮かび上がり、各地を転戦し働いていたことが分かります。

真田親子

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謀略臭がプンプン。真田幸隆

真田の始まり真田幸隆

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タイトルが物騒ですが、真田スピリッツの始祖であり。幸村のおじいちゃんにあたります。

「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」「真武内伝(しんぶないでん)」によると幸隆は真田家の始祖とされています。

真田家のルーツは信州の古い豪族滋野(しげの)氏がルーツで、小県郡(ちいさがたぐん)、山家郷(やまがごう)真田に起こった勢力だ。

滋野氏のルーツは諸説あり、どれも定かではないが、平安末期には小県郡に大きな勢力を築いていたらしい。

やがて滋野氏は3家に分家し、小県郡の禰津(ねづ)氏、佐久郡望月に望月(もちずき)氏、そして海野氏となった。

この中で海野氏が本家でもっとも大きな勢力であった。海野氏は代々信濃守を称し、鎌倉時代期の当主海野小太郎幸氏(うんのこたろうゆきうじ)が、さらにに大きな勢力を築いていった。

この流れを加味するとどうも真田が海野氏から分かれたのは、鎌倉時代の初期の頃ではなかったのかと推測できる。

時は流れ室町時代に海野信濃守棟綱(むねつな)の子、幸隆が真田に住んで真田と名乗ったらしい。

しかし幸隆は棟綱の長男なのか、孫なのか、あるいは棟綱の娘が真田家にとつぎその子が幸隆なのか、諸説あり定かではない。

だが年齢から見ると、やはり子と考えたほうが自然だと思います。とにもかくにも棟綱の子が真田家の祖で、それが真田幸隆でした。

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