武士達の首級の扱い

首級に付けられる札

軍の編成 組織 役職

首実検(詳しくは)や首級(詳しくは)の記事で戦後の死者への扱い、作法や儀式を書かせていただきましたが、これらの風習には、他の国には見られない日本独特の作法が多く存在し、武士ならではの作法だ。

首級2(詳しくは)の記事でも少しふれましたが、敵将の首の扱いをもう少し掘り下げて紹介したいと思います。

武士達は戦後、自分の手柄を敵将の首とし主将の元に持参します。

これを首実検といい主将が敵方の討ち取られた将を確認したり、自軍の将の手柄の度合いを評価する場が設けられていました。この首実検を行うまでの期間、将達はそれぞれ首を保管します。

保管する際、首の血や泥を荒い流し綺麗な状態にして、首札(くびふだ)と呼ばれる板をつけて保管しました。その札には、その個人が特定できる名やその人物の行為等が記された。

武士達の首級の扱い

この首札は髪の毛にくくりつけられるのだが、入道首には髪にくくれないので、右耳に穴を開けてくくりつける事がありました。

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日本人傭兵軍団。海を渡り異国で暴れ回る。

渡海を始める傭兵達

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日本の中世期で、盛んに奴隷ビジネス(詳しくは)が行われていたことを別記事でも紹介しましたが、この流れは国内だけの話しではありません。日本は信長が殺され、次に秀吉が台頭し、その次に家康が政権を開くという、目まぐるしい状況変化が起こっていました。

このころ日本の外では、大航海時代でした。スペイン、ポルトガルが物凄い勢いで各国を植民地化していきます。しばらくするとそこに、オランダとイギリスが割って入ってくるわけです。この競争は激化しそのエリアは東南アジアにまで及び、激戦が行われていました。

この影響は当然日本にも流れて行き多くの商人や宣教師達が日本に上陸したことは、皆さんもご存知だと思います。

スペイン・ポルトガル、イギリス・オランダは日本を東南アジア戦争の戦略拠点として使っていたのです。具体的に言うとですね、武器や食糧、人員等を日本で調達していたのです。この頃日本はどこにも肩入れをせず、自由に商売をさせていたようですね。

こういった流れの中で、多くの日本人が外国へ流出していたそうです。当時どの位の数が日本を出ていったのか正確な数は分かりませんが相当数いたようだと言われているそうです。この海を渡る経緯は人それぞれで自らの意思で渡海する者もいれば、商人に買われて労働夫としての者だったり、奴隷であったりと様々だ。

例えば、失業者、商人、追放されたキリシタン、海賊や船乗り、彼らは自ら新たな稼ぎ場を求め海を渡って行った。これ以外にも西欧人に金で買われたり、あるいは雇われたりした者達だ。捕虜や奴隷、傭兵、船乗り、伝道者(伝道師)等と様々であった。

上に書いたが日本はこの頃、秀吉から家康へと時代が流れて行き、戦場を糧にしていた者達の居場所が少なくなっていた頃だった。だが、国外では、イギリス、ポルトガルらが東南アジアで熾烈な激戦を行っていた為そこには、まだまだ大きな需要があったのです。こういった背景があり、多くの日本人が海を渡りアジアに散らばっていきました。

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天才秀吉すらも苦悩した、時代の大変換期。現在の私達も似たような時代に居るのかも?

混迷する現在の日本

月 桜

この記事をかいているのは、2013年だが、10年前20年前に比べると明らかに日本国内の情勢は変わっている。その変化の仕方は早く少々混乱気味で皆将来に対してあまり希望を持っていないように見える。

世の中にコンピュターが導入され、インターネットが普及し、ビジネスのあり方が変わってきた為、人々の生活様式が変化してきました。この流れは世界を身近にし、国境をあやふやにする勢いです。日本国内の不安情勢は世界の動きに密接に連動していて、もはや国内だけでは解決しがたい状況になってきていて、官僚、政治家、民間人がそのスピードについて行けず、右往左往している状態に見えます。

その昔日本は常に理想の国家像なるモデルがあり、それを参考に独自の価値観を組み合わせて、日本を独自に運営してきました。

大昔の日本であれば隋や唐に役人が留学し国家統治のノウハウを学び日本に持ち帰り、それを日本独自に改良し国内に定着させた。

その後江戸の終わりに、実は海外に民主主義とうい国家像がることを知ると、日本はそれに邁進していきました。まだ海外が遠く彼方であった頃は海外に今の日本より優れた国家体制がある可能性があったのだ。

しかし現在世界は開き身近なものとなった。

見回してみるとどこの国も苦しそうなのだ。日本人は懸命に働きいつの間にか世界一の経済大国になっていて、見渡すと日本を越える素晴らしい国が見当たらなくなっていた。現在では日本の経済は落ち込んでいて苦しんでいるが、これといった対策方法もわからず、また模範とする国が無い状態なのではないでしょうか?

一度出来上がったシステムを改良し安定させて早く回して行く能力は、日本人に勝る民族は居ないでしょう。しかし1から新しいシステムを作り出す事はどうも日本人は苦手なようです。

天才秀吉すらも苦悩した、時代の大変換期。現在の私達も似たよな時代に居るのかも?

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現在はまさに時代の変換期でどれが正解か見出せず、また、いいアイディアが思いつきもしない苦しい時代だと思います。そんな時代ですが、昔の日本にも同じような時代がいくつかありました。その一つが秀吉の天下平定事業の時代だと思います。

秀吉は全国の大名を自政権化に組み込む事に成功し、日本から急速に戦場が閉鎖されていきました。秀吉は自分の政権を安定させる為、戦争にまつわるあらゆる行為を禁止して、人々を戦争から遠ざけていきました。

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パーソナルスペースを確保する為、トイレに篭る武田信玄。

信玄の名案はトイレの中で。

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皆さんご存知の武田信玄さんのお話です。当時その名を全国に轟かせた名将であることは、言うまでもありませんし、もちろん現在でも知名度、人気ともに高い人物です。

もし信玄の方のような人物が自分の勤める会社等にいたら、是非お教えを請いたい人物ですが、きっと恐れ多くて話など掛けられないくらい緊張してしまうような気がします。

さてこの信玄さんは、数々の修羅場を潜り抜けて来た猛者でありますが、多くの重大な決断に迫られたことでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、信玄はあらゆる岐路に立たされた時、トイレにこもり誰とも会わず考えをめぐらし重大な決断や判決を考えていたそうです。

信玄は自分専用のトイレを作らせ、そのトイレの広さはかなり広かったそうで、その広い部屋の真ん中の辺りに用を足すトイレが設置されていたよです。

パーソナルスペースを確保する為トイレに篭る武田信玄。

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トイレ中は無防備な為、忍び等の暗殺や襲撃を防ぐ為の対策、壁越しに槍を突きさし殺す時、槍が届かないようにする為であったり、トイレの入り口は一つなので、不審者が一変に襲撃できない等の理由からこうした設計が成されていたようです。

こうした防衛上のことだけでなく、現代人がトイレで新聞を読む行為と似ていて、信玄も外界から自分をシャットアウトして、誰にも声を掛けられない場所で集中して思案する場所が欲しかったのでしょう。

国の主である信玄が一日の内一人で居られる時間等ほぼないでしょう。こうした理由から信玄はトイレに篭り思案をしていたようです。一家の主のお父さんが、なかなかトイレから出てこなくても、少しだけ我慢してほおっておいてあげて下さいね。

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正子公也氏デザイン 直江兼続。イケメンだったらしい。

イケメンだったらしい、直江兼続

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正子公也氏デザイン 直江兼続さんです。

兼続さんは、大河ドラマでも取り上げられ知名度は高いみたいで、女性から大人気のようです。美男子だったからなのか?理由はよくわかりませんが。ブサイクぶっちぎりな管理人は嫉妬します。

しかし、やはり名将であったことには、異論を唱える人はいないでしょう。

兼続もかなり裏づけのない創作された話が多い人物です。でも話しが盛られるといことは、それだけ人気が高い証拠でもあります。その逸話の中で、兼続は幼少より聡明で美男であった為謙信より特に可愛がられたという話しがありますが、この謙信と兼続の関係を裏付ける資料は現在の所ないようです。

この兼続さんも別記事で詳しく紹介しようと思っております。今回は軽く兼続さんについて触れたいと思います。

そこで兼続さんの数々の戦の紹介ではなく、管理人が兼続が行ったとても尊敬できる話しを紹介しようと思います。

兼続の名采配!

そのお話しの前に少し逸話を紹介します。今でこそ兼続は名将として認知されていますが、兼続は関ヶ原戦の際、石田三成と通じて、家康を敵に回し上杉家を窮地に陥れた将として、上杉家での彼の評価は決していいものではありませんでした。むしろ奸臣としてその名が知られていたようです。

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正子公也氏デザイン 上杉謙信。稀代の猛将

人情家?の上杉謙信

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正子公也氏デザイン 上杉謙信のフィギュアです。

この方も有名な戦国武将でその生涯は広く知られていると思います。謙信さんに関しては別記事で詳しく紹介してみたいと思っています。大変魅力的な人です。

上杉謙信は当時の戦国武将の中でも特に戦争の回数が多かった人で、生涯戦争に明け暮れた人物でした。しかしこの事実の裏を返すと、戦後処理の厳罰が甘かった為、再び反乱の機会を与えてしまう結果を招いているとうことだ。反乱を指揮をしている将を許してしまうのだ。

でも、こんな所が謙信さんの魅力なのだが、謙信は自分の国内の越後豪族の反乱が起こるたびにあちらこちらを転戦している。謙信は戦が非常に強かった為、謙信が来ると、皆おとなしくなるのだが、謙信が春日山城に帰ると、また発起するという繰り返しだった。ここら辺は好敵手であった、武田信玄と比べると、非常に不器用に思えます。

生涯戦い続け、軍神として現在に名を残す。

謙信は関東管領職についてから、関東の動乱を納めることを掲げ、関東に度々出兵しますが、関東の諸勢力から、かなり嫌われていた。もともと関東管領は名門が付いてきた職で長尾家が関東管領を勤める事に不満を持つ者が絶えなかったのだ。

武田信玄は謙信を関東管領とは認めね!として、謙信と呼ばず常に景虎と呼んでいたそうだ。

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正子公也氏デザイン 伊達政宗。遅刻してきた天才。

遅刻してきた天才!伊達政宗。

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正子公也氏デザインのフィギュアシリーズの伊達政宗さんのバージョンです。この政宗は2バージョンあるようで、特別扱いのようです。個人的には、左のバージョンの方が好きかな。

さてこの伊達政宗、特別扱いされるだけあって、人気は抜群で、まさに画になる男といったところでしょうか。上の写真では政宗のふてぶてしい感じが漂っています。

しかし、政宗が戦場で勇士を見せる期間は短いものでした。秀吉の全国平定事業と時期が被ってしまいました。「俺がもう少し、早く生まれていれば・・・」ドラマ、小説等でお決まりの政宗の台詞です。

政宗の半生も今更記事にしなくても、皆さんよくご存知でしょう。かといって何も書かないのも寂しいので、政宗の若かりし頃、まだ無名だった頃の戦いの話を書きます。

伊達政宗VS佐竹義重 人取橋の戦い

時は天正13年 1585年の11月。

伊達政宗は当主になって間もなく、畠山氏の勢力化にある二本松城を包囲した。

しかしここで反伊達連盟が決起する。佐竹義重を盟主とした連合軍が挙兵した。その数3万の大群であった。政宗はこの報告を受けると、自身の1万3千の内半分程を引きつれ、連合軍が陣取る側にある本宮城に入城した。

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